盗んだバイクに軽油を入れる

今日を入れてあと4日で、20回目の誕生日を迎える。あらゆる制限が解除されて社会からは大人と認められると同時に、輝かしい10代の日はもう永遠に来なくなる。成人の方が生活のあらゆる面ではるかに便利なのだろうけど、切なさの方が今は大きい。

もう永遠に、2度とやってこない、というのがとても怖くて仕方がないところがある。なにか大切なものを失ってしまうような気がする。形式的に、外側から、レッテルが、お前はもうそうなのだと突きつけられているようで、とても漠然としていて難しいんだけど、誰かがおれのうしろで息を潜めていて、日付が変わった途端におれの着ているものをビニール袋みたいにびりびりに引き裂いて、用意していた服を上から着せてくるようなイメージがある。囚人を収監する時みたいに、服を没収し裸にさせて全身に消毒液を浴びせ新たな服が支給される。今ここは留置所かもしくは自首をする前の最後の朝で、やり残したことを拾い集める猶予期間だ。

 

10代の内にやっておきたいこと、10代らしいことを考えてみる。とりあえず一つは達成されている。この漠然とした不安に苛まれることだ。漠然とした不安は10代の特権なので。10代のうちに旅をせよというのでやっぱり旅だろうか。でももう休みが無いからなあ。日帰りで友達と線路沿いを歩いて死体を探しに行くこともできない。

河川敷を夕焼けに向かって走るとか。台風来てっけど。

1日で二桁の回数自分磨きしてみるとか思いついたけどたぶん泣くことになるだろうから嫌だし、10代のうちに読んでおきたい本なんてとても読みきれない。20歳になってやりたい事はいっぱいあるんだけどなあ。

 

あれこれ考えてるうちに、意識して10代らしいことをしようとする事自体が10代らしからぬような気がしてきた。自分の中の10代の定義がブレてきてる。とりあえずは10代らしく体に良くなさそうなハンバーガーとポテトを食べて、「君の名は。」を観に行ってこよう。他はまた後で考えよう。後できっと考えるよ、うん。さっさとやれって言われたら「この後やろうと思ってたのにそんなこと言われたからやる気無くなったわー!」って言う準備だけはしておきながら。

つれづれ

夜ふかしという言葉がある。いつまでも寝ないで遅くまで起きることだ。でも夜に一睡もしないで働くことは夜ふかしに入るとは言いづらいかもしれない。夜ふかしすることを仕事という理由が正当化してしまうからだ。

 

じゃあ夜勤明けにいつまでも起きているのは昼ふかしといえる。夜ふかしより良くないことをしている感はないけど、かわりにだらしなさが増した気がする。なんとなく昼行灯という言葉がちらついて、ついでにまぬけさも増したように感じる。

 

部屋に置くタイプの消臭剤を買った。石鹸の香りがするやつだ。寝汗をよくかく体質で、さらにここ数日窓を閉め切っていたために部屋が少し酸っぱい臭いがしていた。1日おいて部屋に入ると、石鹸の香りが充満しており自分の部屋じゃないような気がした。

 

自ら体臭を知覚することはできないというけど、自分の臭いではないということは判断できるらしい。消臭剤を部屋の端っこ、ゴミと隣り合わせに移動してみた。するとゴミと石鹸で相殺されて、部屋はほぼ無臭になった。いや布団の汗の臭いがまた浮上してきたからあまり意味がないな。近いうちにまた部屋の掃除をしなければいけない。

普段の暮らしぶりから、昔の自分と今の自分で臭いは変わっているのだろうけど、それに気付くことのできる人は存在するのだろうかと思った。自分では気付けないし、もし居ないなら変わっていないということになる。

大人は大変

今月は自分の誕生月なので、会社の健康診断のようなものを受けた。運動能力に焦点を当てたもので、結果にペナルティがあるわけではないけど、意地になってしまうのが男の子のサガで、あやうく四肢が爆散しかけた。

 

全てのテストを終えると係りのお姉さんに「もっと運動をしましょう」とか「体が硬いですね」といった批評をいただく。昨年の結果と比較して見られるようになっており、衰えたと思っていても案外数値は変わっていなかった。せいぜい握力が2kg落ちたくらいだった。しかしこのペースでいくとあと20年でおれの握力は0になってしまう。たぶん液体になる。カレーを食べると黄色くなり、握力が無くなるかわりに長座体前屈の記録は伸び続けるだろう。いや手足の概念もなくなるから長座体前屈を正しく計測することもできなくなるのか。握力だけでなく他の数値も軒並み0になってしまうな。

 

役職も年齢も関係なく身体能力のみが評価される場において液状化したおれはどんなおじさんよりも下位の存在なので、係りのお姉さんに運動不足を優しく注意されることもなく、ゴミクズと罵られ唾を吐きかけてくる。唾はおれの表面で波紋をつくり、泡となって解け、やがておれの一部となるだろう。

 

大人って大変だなって思う

 

 

 

玄米4合と味噌とチップスター信州わさび味

初めて詩集を買った。本屋で文庫棚の横を通り過ぎようとしたとき、谷川俊太郎の自選集が目に入ったのでつい買ってしまった。作者のエッセイを1冊だけ読んだことがあり、いつか詩も読んでみたいと思っていたが、忘れかけていたころに見つけたので衝動買いに近いかたちとなった。

 

普通に暮らしていると、文章を読む機会はあっても、詩を読む機会はとんとない。国語の教科書で読んだのが最後という人も多いだろう。何が言いたいのか当時はイマイチ分からなかったけど、不思議と文章は憶えているものだ。『かまきりりゅうじ』はそらで言える自信がある。

詩特有の独特な言い回しや短さが、新幹線から見える突飛な看板のように「今の何だ?」という感じで頭に残りやすいのだろう。頭の中でひとり、何十回も何百回も暗唱することで、その詩の意味が自分だけのものに昇華していく。詩人は広告屋に向いているかもしれない。

 

作者と読者で意味は食い違ったり、読者の間でも意見がぶつかったりする。それぞれ読んだときの心境や環境が違うからだ。

どの詩が頭に残ったかも人それぞれでまったく違う。目に留まった詩は何度も読みこまれたり、栞の定位置になって本に癖がつく。反対にぴんとこない詩は何の感情もなく流される。言葉ひとつとってなんとか意味を汲み取ろうとしても、ぴんとこない詩にはなぜかどうしても深い意味があるようには思えない。単純に好き嫌いの問題だ。

それでもいいのだとする詩の世界はあんがい、気を張る必要がなく親しみやすい。でもたまに豪速球で心をえぐってくるものもあるので油断すると吐きそうになる。深夜のどうかしてる時間には特に。

 

買った自選集では、「二十億光年の孤独」「つまりきみは」「ゆうぐれ」がとてもいい世界観で気にいった。まだ全部読めていないしばら読みだけど、急いで読むものでもないのでしばらくは枕元に置いておくことにする。「くらしは質素で、たまに詩を読んで過ごした。」なんか宮沢賢治の作品に出てきそうじゃないだろうか。そんな気分にもなれるので、詩集をひとつくらい持っていてもいいな、と思った。

 

坂の上には学校がある

目覚まし時計をセットするときに日付が目に入った。8月31日。一般的に夏休み最後の1日とされる日だ。おれが通っていた高校では夏休みは8月の25日くらいまでで、夏休み最後の日という情緒は多少薄れてしまっているけど、それでもこの日は夏休み最終日だという意識が根付いている。

 

おれはいつも宿題を後回しにして、最終日に慌てるやつだった。今でもそれは変わっておらず、周囲に迷惑をかけてしまっている。

この夏は、夏らしいことをしただろうかと振り返ってみる。今年は海にも行ったし東京にも遊びに行った。学生からするともう一イベント欲しいところだろうが、社会人としてはそれなりに夏を謳歌しているんじゃないか。


せっかく夏休み最後の日だから学生らしいことをしようと、日付が変わる前に日記を書き始めたはいいものの書くことが思いつかない。急かされる気持ちを擬似的に味わおうというのにまったく落ち着いてしまって緊張感がない。日頃からさくせんを「きらくにいこうぜ」にしているせいで鬼気迫るものがまるでない。

どうでもいいけど「いのちをだいじに」と「人に優しく」はニュアンスがとても似ている気がする。ブルーハーツドラクエが好きだったんだな。いや時代的に逆か。

 


ドラクエで思い出したけど、おれは小さいころドラクエの「テリーのワンダーランド」に熱中していた。ゲームボーイカラーのやつだ。攻略本片手にデスピサロを作った思い出がある。

 

ある日父の親友の家に家族で遊びに行ったとき、ゲームっ子だったおれはもちろんテリーのワンダーランドを持って行った。家は山裾にあり、いろは坂も顔負けの急勾配&連続カーブで母がすっかりやられていた。川原で泳いだりバーベキューをして遊び、そのときに、テリーのワンダーランドを忘れて帰ってしまった。

 

以降その家に行くことはなく、今さら取り返そうなんて気もないのだけど、もう一度あの家を訪れなければいけないとずっと考えていた。

父の親友の、そのまた父親の名前がおれとまったく一緒という、それだけの理由なんだけど、おれはどうしても行かなければならないような気がしていた。シンパシーってやつか、思い出の美化か。名前自体は初対面の人でも読めるほどの少し珍しい程度でも、読みも字も一緒の人は今の今までそのおじいさん以外に出会ったことがなく、おじいさんの方も嬉しがって可愛がってくれた。小さいころだったのでおじいさんの顔はまったく思い出せない。もういよいよという歳なので、健康なうちに会っておきたい。

 

うまく説明できないけど、同じ名前を持つ先人とこれからも生きるおれとで、話をしなければならない気がしている。継承式と呼ぶべきものかもしれない。でも、その人生のすべてを、おれが聞いてあげなければという強迫が確かに、ある。声も顔も出てこないけど、おじいさんが他界したときには泣いてしまう確信がある。おじいさんから宿題を受けとらなければ、永遠に終わらせることなどできないんだ。夏休み最後の日に慌てて、まわりに迷惑をかけてしまう俺だけどこれだけは、ちゃんと終わらせて9月を迎えなければいけない。大丈夫。読書感想文だけは早かったんだ。

オールナイト・ドリップ

ここ数日はテレビを点けずに生活している。代わりにラジオを四六時中つけっぱなしにしてBGMのように使っている。

テレビを観なくても、ニュースはラジオでもやっているし旬の話題もパーソナリティーが取り上げてくれる。さほど不自由なく台風の情報もオリンピックの情報も、面白いトークだって流れてくる。

なるほどやはりラジオはテレビに次ぐ立派なメディアだなと思わされる。でもラジオのパーソナリティは、テレビで活躍する芸能人がとても多い。すると話題はやっぱりテレビ番組の内容や舞台裏に偏りがちになる。
ゴールデンタイムのテレビ番組の内容をパーソナリティーが話すとなると、聴いている人がその番組を見ている前提で細部を話し始めてしまうので、番組を見てない人にとっては場面を想像できず話に入っていきづらい。今のラジオはテレビありきな部分が多いことに、少し面倒くさくなってしまう。

ラジオよりテレビより上のメディアが登場しそれが当たり前に普及したとき、テレビの在り方はどうなるのだろう。今のラジオみたいに「ありき」の存在になるのだろうか。そしてそのときラジオは、「ありきのありき」となって絞りかすみたいになってしまうのだろうか。もしかすると、ろ過器みたいにたくさんの情報のフィルターを介して、ごく少量の純粋ななにかが抽出されたとても繊細なものになるのかもしれない。

がんばれバナメイエビ

平日の昼にスーパーに行くと、入り口で試食を勧められた。ぶどうの試食だった。ぶどうは好きだけど、足を止めて売り文句を聞いていると、時間を割いてもらっているし買わないことには申し訳が立たない気持ちに駆られてしまうので遠慮した。

冷房の効きすぎる精肉売り場をうろついていると、体操服を着た中学生が台車を転がして通り過ぎ、バックヤードに消えた。腕章をつけていたので、職場体験というやつだろう。見れば店内のあちこちで、腕章をつけた中学生たちが棚の整理を手伝ったりしている。入り口で試食を勧めてきたのもその1人だったことにようやく気付く。ぶどうの乗ったトレーを抱えて、入り口の向こうの駐車場をじっと見つめていた。せめて話を聞いてあげれば良かったかもしれない。

自分が中学生のときは、職場体験の時期にインフルエンザが流行って学級閉鎖になり中止になってしまった。文化祭も参加できなくなって散々だったことを憶えている。たしかおれは農協で職場体験をするはずだった。

1日を終えて帰宅した彼らは、親にいつもよりちょっとだけ優しくなったりするんだろうな。

柔軟剤を買い忘れたことに帰ってから気づいたが、買ってきたポテトサラダを食べたらどうでもよくなった。