その黒

グリスガンという工具がある。トリガーを引くと電気の力でセットされたグリス容器が押し出され、ガンの口から一定のスピードで機械へ供給できる仕組みになっている。もっぱら工場なんかで使われる。

 

 

グリスというのはいわゆる脂であり、あらゆる機械の稼働には欠かせないものだ。冷却作用のためにパソコンにも使用されていたりする。他にも様々な効果があるがキリがないので割愛する。とりあえず脂は超万能なんです。

 

 

グリスを注入すると、別口から古くなって黒ずんだグリスが排出される。新品の色のグリスが排出されれば内部の容量がすべて新品に取り替えられたということになる。

新品のグリスはけして黒色ではないし、もちろん異物が入ったわけでもない。それでも緩衝材や部品同士の潤滑に使用されると、どうしてか黒くなる。

 

 

ふと学校の階段の壁が思い浮かんだ。みんなが壁を手や指でなぞりながら階段を使うので、その高さだけ黒く汚れていた。今思えばあれは皮膚の脂が蓄積されて黒くなっていたのだと思う。

軍手なんかも、仕事柄いつも着けているのだが、新品のものであっても1週間もすればたちどころに黒くなってしまう。手の汗などすべて吸うので黒くなるのが早いということだろう。どうして黒くなるのかだけはどうしても分からない。知識的な問題とは別に。

 

 

気になって大阪名物のビリケンさんを画像検索してみた。あの足の裏は予想通り、擦り減って塗装が剥げ、少し黒くなっていた。しかしこれまでに膨大な数の観光客がビリケンさんを触っているはずなのに、目立った汚れが見当たらない。毎日係の人が足の裏を拭いたりしているのだろうか。いろんな人が触りに来るからきっと除菌とかも対策してあるんだろう。ビリケンさんを媒介にまったく新しいウィルスが蔓延していったら少し面白いなと思った。

ミリオンカラー・エディション

友人はその名の通り、緑色が好きだった。小さな庭にはよく手入れされた芝生が青々と敷き詰められていて、身につけるものは靴下から時計まで、黄緑やエメラルドグリーンといった様々なカラーバリエーションのものを選び、冬はきまってビンテージの煤けたモッズコートを羽織った。

緑色でないところといえば肌の色と髪の色くらいであり、その昔、なぜ髪は黒のままなのかと私が尋ねると、緑は土壌に芽吹くものだ、土の黒なくして緑は緑たりえない、と言った。緑に黒が大事なことは分かったよ、じゃあその白い肌はどうなのだ、もしかして鳥のフンじゃないだろうね。

私の軽口に友人は、コーヒーの入ったカップを置き顔をわずかに傾げて、目を細めた。

太陽さ。

無神論者がする聖人の瞳に、私はもうそれ以上何も言えなくなった。その店の勘定は私が自ら払った。

 

友人は休みのたびに都市を離れ、各地の山々を巡った。金曜日に別れるとき、いつも、もしかしたら彼は帰ってこないのではないかという気がした。そうだとしてもなんら不思議なことではなかった。それこそが友人の本懐であり、条件に合う山をずっと探しているのだと思っていた。真っ暗な土の中でほんのり白く輝く彼の骸が、明日の遠足を待ちわびる子供のように笑っている。そんなイメージが時折、頭にちらついた。

 

週末、友人に初めて誘われた。驚きはなかった。その瞬間に全てを理解して、ああ、ついにこの時が来たのだなという淡々とした感慨だけがあった。私は有無を言わずそれを了承した。

 

山には緑は見当たらず、ごつごつした砂利の灰色と雪の白だけがあった。気圧の変化に頭が締めつけられ、何度か吐いた。友人は私を心配したが、構わず登り続けた。しばらく無言でひたすらに登り続けた。息が凍り霧の中へ消えた。

 

山の頂上から見る朝日は、神聖で、普段みているものとはまったく異なる、別世界のもののように思えた。汗が冷えるのも気にせず、しばらく見入った。墓標になるものを持ってくるのを忘れたことに気づき、持って帰る体力もなかったので、用済みになったシャベルを深々と突き刺しておいた。

眠る友人の隣に腰掛けて、タバコに火をつけた。しかしもはや肺は紫煙に割ける容量を持ち合わせておらず、ひどく咳き込んだ。諦めて大の字になると、空の蒼が視界いっぱいに飛び込んできた。

蒼い。なんて蒼いのだろう。今まで見てきたものよりはるかにずっと蒼い。蒼穹のその先に宇宙が広がっているとは思えなかった。きっとどこまで行っても青色で、昼も夜もないのだ。墓参りは大変そうだけど、この青色が見られるのなら、悪くない。

都市に帰ったら、青い時計でも買おうと思った。

盗んだバイクに軽油を入れる

今日を入れてあと4日で、20回目の誕生日を迎える。あらゆる制限が解除されて社会からは大人と認められると同時に、輝かしい10代の日はもう永遠に来なくなる。成人の方が生活のあらゆる面ではるかに便利なのだろうけど、切なさの方が今は大きい。

もう永遠に、2度とやってこない、というのがとても怖くて仕方がないところがある。なにか大切なものを失ってしまうような気がする。形式的に、外側から、レッテルが、お前はもうそうなのだと突きつけられているようで、とても漠然としていて難しいんだけど、誰かがおれのうしろで息を潜めていて、日付が変わった途端におれの着ているものをビニール袋みたいにびりびりに引き裂いて、用意していた服を上から着せてくるようなイメージがある。囚人を収監する時みたいに、服を没収し裸にさせて全身に消毒液を浴びせ新たな服が支給される。今ここは留置所かもしくは自首をする前の最後の朝で、やり残したことを拾い集める猶予期間だ。

 

10代の内にやっておきたいこと、10代らしいことを考えてみる。とりあえず一つは達成されている。この漠然とした不安に苛まれることだ。漠然とした不安は10代の特権なので。10代のうちに旅をせよというのでやっぱり旅だろうか。でももう休みが無いからなあ。日帰りで友達と線路沿いを歩いて死体を探しに行くこともできない。

河川敷を夕焼けに向かって走るとか。台風来てっけど。

1日で二桁の回数自分磨きしてみるとか思いついたけどたぶん泣くことになるだろうから嫌だし、10代のうちに読んでおきたい本なんてとても読みきれない。20歳になってやりたい事はいっぱいあるんだけどなあ。

 

あれこれ考えてるうちに、意識して10代らしいことをしようとする事自体が10代らしからぬような気がしてきた。自分の中の10代の定義がブレてきてる。とりあえずは10代らしく体に良くなさそうなハンバーガーとポテトを食べて、「君の名は。」を観に行ってこよう。他はまた後で考えよう。後できっと考えるよ、うん。さっさとやれって言われたら「この後やろうと思ってたのにそんなこと言われたからやる気無くなったわー!」って言う準備だけはしておきながら。

つれづれ

夜ふかしという言葉がある。いつまでも寝ないで遅くまで起きることだ。でも夜に一睡もしないで働くことは夜ふかしに入るとは言いづらいかもしれない。夜ふかしすることを仕事という理由が正当化してしまうからだ。

 

じゃあ夜勤明けにいつまでも起きているのは昼ふかしといえる。夜ふかしより良くないことをしている感はないけど、かわりにだらしなさが増した気がする。なんとなく昼行灯という言葉がちらついて、ついでにまぬけさも増したように感じる。

 

部屋に置くタイプの消臭剤を買った。石鹸の香りがするやつだ。寝汗をよくかく体質で、さらにここ数日窓を閉め切っていたために部屋が少し酸っぱい臭いがしていた。1日おいて部屋に入ると、石鹸の香りが充満しており自分の部屋じゃないような気がした。

 

自ら体臭を知覚することはできないというけど、自分の臭いではないということは判断できるらしい。消臭剤を部屋の端っこ、ゴミと隣り合わせに移動してみた。するとゴミと石鹸で相殺されて、部屋はほぼ無臭になった。いや布団の汗の臭いがまた浮上してきたからあまり意味がないな。近いうちにまた部屋の掃除をしなければいけない。

普段の暮らしぶりから、昔の自分と今の自分で臭いは変わっているのだろうけど、それに気付くことのできる人は存在するのだろうかと思った。自分では気付けないし、もし居ないなら変わっていないということになる。

大人は大変

今月は自分の誕生月なので、会社の健康診断のようなものを受けた。運動能力に焦点を当てたもので、結果にペナルティがあるわけではないけど、意地になってしまうのが男の子のサガで、あやうく四肢が爆散しかけた。

 

全てのテストを終えると係りのお姉さんに「もっと運動をしましょう」とか「体が硬いですね」といった批評をいただく。昨年の結果と比較して見られるようになっており、衰えたと思っていても案外数値は変わっていなかった。せいぜい握力が2kg落ちたくらいだった。しかしこのペースでいくとあと20年でおれの握力は0になってしまう。たぶん液体になる。カレーを食べると黄色くなり、握力が無くなるかわりに長座体前屈の記録は伸び続けるだろう。いや手足の概念もなくなるから長座体前屈を正しく計測することもできなくなるのか。握力だけでなく他の数値も軒並み0になってしまうな。

 

役職も年齢も関係なく身体能力のみが評価される場において液状化したおれはどんなおじさんよりも下位の存在なので、係りのお姉さんに運動不足を優しく注意されることもなく、ゴミクズと罵られ唾を吐きかけてくる。唾はおれの表面で波紋をつくり、泡となって解け、やがておれの一部となるだろう。

 

大人って大変だなって思う

 

 

 

玄米4合と味噌とチップスター信州わさび味

初めて詩集を買った。本屋で文庫棚の横を通り過ぎようとしたとき、谷川俊太郎の自選集が目に入ったのでつい買ってしまった。作者のエッセイを1冊だけ読んだことがあり、いつか詩も読んでみたいと思っていたが、忘れかけていたころに見つけたので衝動買いに近いかたちとなった。

 

普通に暮らしていると、文章を読む機会はあっても、詩を読む機会はとんとない。国語の教科書で読んだのが最後という人も多いだろう。何が言いたいのか当時はイマイチ分からなかったけど、不思議と文章は憶えているものだ。『かまきりりゅうじ』はそらで言える自信がある。

詩特有の独特な言い回しや短さが、新幹線から見える突飛な看板のように「今の何だ?」という感じで頭に残りやすいのだろう。頭の中でひとり、何十回も何百回も暗唱することで、その詩の意味が自分だけのものに昇華していく。詩人は広告屋に向いているかもしれない。

 

作者と読者で意味は食い違ったり、読者の間でも意見がぶつかったりする。それぞれ読んだときの心境や環境が違うからだ。

どの詩が頭に残ったかも人それぞれでまったく違う。目に留まった詩は何度も読みこまれたり、栞の定位置になって本に癖がつく。反対にぴんとこない詩は何の感情もなく流される。言葉ひとつとってなんとか意味を汲み取ろうとしても、ぴんとこない詩にはなぜかどうしても深い意味があるようには思えない。単純に好き嫌いの問題だ。

それでもいいのだとする詩の世界はあんがい、気を張る必要がなく親しみやすい。でもたまに豪速球で心をえぐってくるものもあるので油断すると吐きそうになる。深夜のどうかしてる時間には特に。

 

買った自選集では、「二十億光年の孤独」「つまりきみは」「ゆうぐれ」がとてもいい世界観で気にいった。まだ全部読めていないしばら読みだけど、急いで読むものでもないのでしばらくは枕元に置いておくことにする。「くらしは質素で、たまに詩を読んで過ごした。」なんか宮沢賢治の作品に出てきそうじゃないだろうか。そんな気分にもなれるので、詩集をひとつくらい持っていてもいいな、と思った。

 

坂の上には学校がある

目覚まし時計をセットするときに日付が目に入った。8月31日。一般的に夏休み最後の1日とされる日だ。おれが通っていた高校では夏休みは8月の25日くらいまでで、夏休み最後の日という情緒は多少薄れてしまっているけど、それでもこの日は夏休み最終日だという意識が根付いている。

 

おれはいつも宿題を後回しにして、最終日に慌てるやつだった。今でもそれは変わっておらず、周囲に迷惑をかけてしまっている。

この夏は、夏らしいことをしただろうかと振り返ってみる。今年は海にも行ったし東京にも遊びに行った。学生からするともう一イベント欲しいところだろうが、社会人としてはそれなりに夏を謳歌しているんじゃないか。


せっかく夏休み最後の日だから学生らしいことをしようと、日付が変わる前に日記を書き始めたはいいものの書くことが思いつかない。急かされる気持ちを擬似的に味わおうというのにまったく落ち着いてしまって緊張感がない。日頃からさくせんを「きらくにいこうぜ」にしているせいで鬼気迫るものがまるでない。

どうでもいいけど「いのちをだいじに」と「人に優しく」はニュアンスがとても似ている気がする。ブルーハーツドラクエが好きだったんだな。いや時代的に逆か。

 


ドラクエで思い出したけど、おれは小さいころドラクエの「テリーのワンダーランド」に熱中していた。ゲームボーイカラーのやつだ。攻略本片手にデスピサロを作った思い出がある。

 

ある日父の親友の家に家族で遊びに行ったとき、ゲームっ子だったおれはもちろんテリーのワンダーランドを持って行った。家は山裾にあり、いろは坂も顔負けの急勾配&連続カーブで母がすっかりやられていた。川原で泳いだりバーベキューをして遊び、そのときに、テリーのワンダーランドを忘れて帰ってしまった。

 

以降その家に行くことはなく、今さら取り返そうなんて気もないのだけど、もう一度あの家を訪れなければいけないとずっと考えていた。

父の親友の、そのまた父親の名前がおれとまったく一緒という、それだけの理由なんだけど、おれはどうしても行かなければならないような気がしていた。シンパシーってやつか、思い出の美化か。名前自体は初対面の人でも読めるほどの少し珍しい程度でも、読みも字も一緒の人は今の今までそのおじいさん以外に出会ったことがなく、おじいさんの方も嬉しがって可愛がってくれた。小さいころだったのでおじいさんの顔はまったく思い出せない。もういよいよという歳なので、健康なうちに会っておきたい。

 

うまく説明できないけど、同じ名前を持つ先人とこれからも生きるおれとで、話をしなければならない気がしている。継承式と呼ぶべきものかもしれない。でも、その人生のすべてを、おれが聞いてあげなければという強迫が確かに、ある。声も顔も出てこないけど、おじいさんが他界したときには泣いてしまう確信がある。おじいさんから宿題を受けとらなければ、永遠に終わらせることなどできないんだ。夏休み最後の日に慌てて、まわりに迷惑をかけてしまう俺だけどこれだけは、ちゃんと終わらせて9月を迎えなければいけない。大丈夫。読書感想文だけは早かったんだ。