自然体

クセがすごいらしい。字の話だ。会議で書記を任されたのでちょっと低めに架けられたホワイトボード相手にに四苦八苦していたら、クセがすごいと言われた。読めない字ではないとのことなので、会議はそのまま続行し、なんら不都合もなく終了した。

 

自分の字がどういうクセなのかを説明したいけどここはインターネットなので難しい。そもそも字ごとに書きかたが違うのできりがない。例を挙げると「る」が「こざとへん」みたいになる。

クセがついた原因は、授業中ノートを取るのが退屈だったのでお遊びで書道家みたいにズバババーンキュッと書いてたら楽しくなってしまったことにある。書道家スピリットのおかげか、汚かった字はかろうじて読めるレベルにはなったけど、今でも心の中でズバババーンキュッって言いながら書いている瞬間がある。そんなんだから真面目に勉強しているようでその実、内容はさっぱり頭に入ってなかったりする。

 

みんなどこかしら字にクセを抱えている。年配の方になると特に。達筆という言い方をするけど若造の自分にはクセがすごいとしか思えない。読めなかったとしても達筆と評されると何も言えなくなるのでずるいと思う。

そんな人にも達筆じゃない時期があって、達筆になりかけのときの字はそれはもうクセがすごかっただろう。

汚い字はともかくクセのある字は矯正する必要がないのでほったらかしになり、年を経るごとに、癌のようにクセの深度は増していく。子供の頃の汚い字から、普通の字なるようにと矯正されて、やがてそれぞれのクセを獲得していく。普通のきれいな字なんて、インターネットや印刷機の中にしかない。クセなんて言っているけど、ほんとうはクセ字なんてものはないのだと思う。みんな自分の文字を持っているというだけだ

スモークガラス

インフルエンザが流行りはじめているというので、使い捨てのマスクをしていた。けれど顎のあたりがとても痒くなって、すぐに外して捨ててしまった。

顎に生えた髭のせいだ。まだ柔らかい髭が固い紙製の生地にあたって、とても心地が悪い。ついでにうつ伏せで寝ると枕にあたってこれまた心地が悪い。

 

剃ったら剃ったで鏡で見る自分の顔にとても違和感があるので剃らないようにしている。つまりおれは、19年髭無しで生きてきた実績より、1年髭を生やして生きてきた現在の「それっぽさ」を信頼している。

髭の存在が、19対1のワンサイドゲームをひっくり返す要因だとは到底思えないけど、実際そうなっているのだ。人の価値観や認識はあまりあてにならないのかもしれない。

 

マスク繋がりでいうと、日曜日にガスマスクをして茶畑の跡地を走り回っていた。サバイバルゲームというやつをしていた。

眼鏡とガスマスクは併用することができず(昔はガスマスク用の眼鏡があったらしいが)、コンタクトレンズを持っていなかったので裸眼でガスマスクをした。視力が少し回復していたのか、あまり困ることはなく楽しくプレイすることができた。

日中はそのまま、休憩中も裸眼で過ごしていたのだけど、スマホ画面の黒色に反射した自分の顔に、また違和感を覚えた。それは、眼鏡をしていないということに対してのものだった。

裸眼で過ごしてきたのは17年、眼鏡をかけたのはそれからの3年だ。また歴史の浅い方である現在に感覚が寄っている。自分の幼少期の頃からの顔を正確に思い出せはしないし、毎日鏡を見るうちに「それっぽさ」は徐々に徐々に推移していくものだとしても、自分が見ている自分が、だんだんと知らない人になっていくようでなんともいえない気持ちになる。

これから先、鏡の中の自分にもはやひとつも確信が持てなくなったとしても、久しぶりに会った友達は「変わらないな」と言うのだろうか。

同窓会行くのやめようかな。

つれづれ2

会社の勧めで、トヨタの展示会へ行った。いかんせん車に興味が薄いせいで途中までモーターショーと勘違いしていたが、広い駐車場を会場としたわりとのんびりした雰囲気だった。

のんびりしすぎて、黒光りする新車の高級感と背広を着て動き回るディーラーの方に違和感があるくらいだった。

どうせなら重機の展示会が見たい。カニみたいな双腕作業機とか、カニみたいな多脚作業機が動くところを見てみたい。あと除雪車とか。除雪車はかっこいい。

 

展示された車の脇には、車名、型式、性能といった情報が記載されたパネルが立っていた。隅から隅まで読んでみるが、いまいちピンとこない。

マッドマックスを観たあとに「V8!V8!」と例のポーズではしゃぎはするものの、心の中では「V8ってなんや…」と専門用語に気圧されてるようだからまるでだめだ。たぶんエンジンが強力ってことなんだろう、というくらいにしか。

マックスの愛車が8なんだから、おれのボロ車は…2くらいだろうか。映画よろしくエンジンまわりを外に出して冷却効率を良くすれば3くらいになるかも。バケットホイールエクスカベーターはきっと3200くらいあるに違いない。F-ZEROは5万。5万はある。昔ゲーセンにあったF-ZEROレーシングゲーム、自キャラがランダムで決まること以外は面白い良いゲームだったな。ちなみにおれのキャラは変なジジイだった。

 

展示会場を歩いていると、車体の後ろにV36と刻印された車を見つけた。そういうもんだろうか、とぼんやり考えながら受付でアンケートを済ませ、袋状のジップロックをもらって帰った。パンフレットももらって帰れば良かった。次の車は、丈夫なランドクルーザーも良いなと思った。

タイムマシンは流線形

自転車は徒歩より速く、車は自転車より速い。それよりもっと速い乗り物はたくさんある。

 

速いスピードで移動するほど、土地どうしの距離の感覚が曖昧になる。自分の意識外でその移動が行われているなら、なおさら。

 

新幹線を使うとき、本州なら数時間で大体どこにでも行けてしまうから、ひょっとしたら、車窓から見える灯りのついた家には誰もおらず、人が住んでいないのかもしれないなという想像がある。何もかもすっ飛ばしてしまうスピードがそうさせるのだろう。

 

公共の乗り物は、自分が知っている、また憶えている道が終わると、目的地までは何キロで何時間かかるとかの数字に置きかわる。数を数えるステップに移行したとき、はたしてそれは移動しているといえるのか。エレベーターに乗っているときの感覚と似ている。

GPSの上では移動していても、それとは別に、なんだかとても曖昧な空間に留まり続けている気がする。少し怖いけど、嫌いじゃない。

新幹線という空間に適当な風景を窓に貼っつけて、目的地のデータを読み込む時間稼ぎをしているのではないか。なんてことも考える。風景に飽きてそんなこんなを想像していると、これもまたすぐに飽きて、いつの間にやら眠っている。

世界は五分前にできたっていう理論を少し信じている節がある。

 

村上龍の「五分後の世界」を積んでいるのを思い出したけど、読むのはまた今度にしよう。

その舟に乗せてくれ

言葉の意味がわからない単語を見つけると、国語辞典的なページで検索してスクリーンショットに残す習慣がある。それらは古語だろうが医学用語だろうが、一緒くたにしてフォルダにまとめている。

 

そうすることで語彙が増えるかといえばそんなうまい話があるわけもなく、自己満足すら通りすぎてただ作業の目で繰り返し行っている。

 

とりわけ気に入っている単語なんかはよく覚えていられるのだが、使いどころのないものばかりだ。ファージとか。テロメアなんて意味すらよく分からないけど、なんとなく語感がかっこいいので気に入っている。

 

 

古本や歴史の本を読んでいると、知らない単語が立て続けに出てくる。1ページのうちに何度も辞書を引かなければならない時もままある。その度に一旦本から意識を離れさせなければならないので、臨場感もテンポもあったもんじゃない。娯楽としてか、勉強としてか、作業としてか。一体おれは何を目的にこの本に向かっているのか、分からなくなってしまう。どことなく英語の教科書の例文を和訳しているような感覚がつきまとう。

 

難しい日本語を自分が理解できるレベルに落とし込むわけだからそう難しくはない。外国語だとこうはいかない。長文をひと単語ずつまじめに訳していくと、必ずといっていいほど熟語という難敵に足をとられてすっ転んでしまう。by the wayが日本語で「ところで」だなんて、義務教育で教えられていなかったら、おれたちはいったい何て訳しただろう。

 

ところで、中学生くらいの時に、洋楽を自分で日本語訳してみようとするの、どうしてなんだろうね。誰しも一度はやったことがあると思うんだけど。

その黒

グリスガンという工具がある。トリガーを引くと電気の力でセットされたグリス容器が押し出され、ガンの口から一定のスピードで機械へ供給できる仕組みになっている。もっぱら工場なんかで使われる。

 

 

グリスというのはいわゆる脂であり、あらゆる機械の稼働には欠かせないものだ。冷却作用のためにパソコンにも使用されていたりする。他にも様々な効果があるがキリがないので割愛する。とりあえず脂は超万能なんです。

 

 

グリスを注入すると、別口から古くなって黒ずんだグリスが排出される。新品の色のグリスが排出されれば内部の容量がすべて新品に取り替えられたということになる。

新品のグリスはけして黒色ではないし、もちろん異物が入ったわけでもない。それでも緩衝材や部品同士の潤滑に使用されると、どうしてか黒くなる。

 

 

ふと学校の階段の壁が思い浮かんだ。みんなが壁を手や指でなぞりながら階段を使うので、その高さだけ黒く汚れていた。今思えばあれは皮膚の脂が蓄積されて黒くなっていたのだと思う。

軍手なんかも、仕事柄いつも着けているのだが、新品のものであっても1週間もすればたちどころに黒くなってしまう。手の汗などすべて吸うので黒くなるのが早いということだろう。どうして黒くなるのかだけはどうしても分からない。知識的な問題とは別に。

 

 

気になって大阪名物のビリケンさんを画像検索してみた。あの足の裏は予想通り、擦り減って塗装が剥げ、少し黒くなっていた。しかしこれまでに膨大な数の観光客がビリケンさんを触っているはずなのに、目立った汚れが見当たらない。毎日係の人が足の裏を拭いたりしているのだろうか。いろんな人が触りに来るからきっと除菌とかも対策してあるんだろう。ビリケンさんを媒介にまったく新しいウィルスが蔓延していったら少し面白いなと思った。

ミリオンカラー・エディション

友人はその名の通り、緑色が好きだった。小さな庭にはよく手入れされた芝生が青々と敷き詰められていて、身につけるものは靴下から時計まで、黄緑やエメラルドグリーンといった様々なカラーバリエーションのものを選び、冬はきまってビンテージの煤けたモッズコートを羽織った。

緑色でないところといえば肌の色と髪の色くらいであり、その昔、なぜ髪は黒のままなのかと私が尋ねると、緑は土壌に芽吹くものだ、土の黒なくして緑は緑たりえない、と言った。緑に黒が大事なことは分かったよ、じゃあその白い肌はどうなのだ、もしかして鳥のフンじゃないだろうね。

私の軽口に友人は、コーヒーの入ったカップを置き顔をわずかに傾げて、目を細めた。

太陽さ。

無神論者がする聖人の瞳に、私はもうそれ以上何も言えなくなった。その店の勘定は私が自ら払った。

 

友人は休みのたびに都市を離れ、各地の山々を巡った。金曜日に別れるとき、いつも、もしかしたら彼は帰ってこないのではないかという気がした。そうだとしてもなんら不思議なことではなかった。それこそが友人の本懐であり、条件に合う山をずっと探しているのだと思っていた。真っ暗な土の中でほんのり白く輝く彼の骸が、明日の遠足を待ちわびる子供のように笑っている。そんなイメージが時折、頭にちらついた。

 

週末、友人に初めて誘われた。驚きはなかった。その瞬間に全てを理解して、ああ、ついにこの時が来たのだなという淡々とした感慨だけがあった。私は有無を言わずそれを了承した。

 

山には緑は見当たらず、ごつごつした砂利の灰色と雪の白だけがあった。気圧の変化に頭が締めつけられ、何度か吐いた。友人は私を心配したが、構わず登り続けた。しばらく無言でひたすらに登り続けた。息が凍り霧の中へ消えた。

 

山の頂上から見る朝日は、神聖で、普段みているものとはまったく異なる、別世界のもののように思えた。汗が冷えるのも気にせず、しばらく見入った。墓標になるものを持ってくるのを忘れたことに気づき、持って帰る体力もなかったので、用済みになったシャベルを深々と突き刺しておいた。

眠る友人の隣に腰掛けて、タバコに火をつけた。しかしもはや肺は紫煙に割ける容量を持ち合わせておらず、ひどく咳き込んだ。諦めて大の字になると、空の蒼が視界いっぱいに飛び込んできた。

蒼い。なんて蒼いのだろう。今まで見てきたものよりはるかにずっと蒼い。蒼穹のその先に宇宙が広がっているとは思えなかった。きっとどこまで行っても青色で、昼も夜もないのだ。墓参りは大変そうだけど、この青色が見られるのなら、悪くない。

都市に帰ったら、青い時計でも買おうと思った。