ライフ

中途半端な時期に実家に帰り、一泊だけしてまた戻ってきた。車を乗り換えるためだ。

 

これまで乗っていた、自分にとって初めての車は、車検が通らない故障があるとかで、ちょうど父が安い車を見つけてくれたものだから、つい二つ返事で了承してしまった。

 

初めてのマイカーは小さくて古く馬力もない軽四であったが、車が無いと不便な地方であったから、毎日乗るうちにそれなりに愛着が湧いてきていた。しかしいつかは別れが来るものだ。それが数年早まっただけで、走行中に突然壊れてしまうよりはマシであろう。そう自分に言い聞かせた。

 

最後の運転なのだから、高速道路で最短距離を行くより、国道をたっぷり時間をかけて帰ろうと思った。

ところが急遽部屋を掃除しなければならなくなり、手間取っていると夜が明けていた。のんびりと国道を走る時間もなくなり、仕方なく高速に入った。

 

数ヶ月ぶりの地元は、変わっているものもあれば変わっていないものもあった。小さい頃から続いている道路工事がまだ終わっていなかったり、信号ができていたり、しばらく会っていない従兄弟の近況を聞いたり、思わぬところで中学時代の友達に出くわしたりした。

それなりに慌ただしい二日間だったと思う。

 

新しい車は、これまで乗っていた車に比べて比較的新しく、馬力もあったし燃費も良かった。

前は直接キーを挿し込んで回さなければドアも開けられなかったのに、今の車はキーを挿さなくてもエンジンはかけられるし、キーを持っていればドアに近寄るだけで自動でロックも解除される。

前の車ではアンテナが早々に折れ、受信できなかったラジオが今は聴き放題だ。

 

不慣れなボタンやレバーの位置に四苦八苦しながら高速道路を使って帰った。シートも以前より柔らかくて疲れにくく、こまめに休憩する必要がなくなって比較的早く帰ることができた。

ガソリンの消費量も、目に見えて違う。

 

持たされたカップ麺たちを抱えながら部屋に戻ると、掃除されたばかりのきれいな部屋がなぜか、とても居心地が悪かった。散乱していたゴミや漫画や服がないため、わずかに残された定位置というべきものがブレていた。

 

明日も朝早いのに、眠ることができず、この二日間のことを考えていた。実家に向かう際の、最後に乗ったあの車。徹夜での運転はまずいと、途中のサービスエリアで仮眠をとったとき、首と肩と尻が痛かった。けれど、その時の入眠は非常にすんなりと、落ち着いていたと思う。

 

眠れないので、持たされたカップ麺を、深夜にもかかわらず作ってしまった。明日も朝早いのに。

 

食べ終わった空容器を、片付けずに布団に入ってしまいたかった。でもきっと眠れずに、朝を迎えてしまうという予感があった。明日はきっとひどい顔で仕事をして、そのあとぐっすりと10時間は眠るだろう。しかしそれは睡眠不足と疲れからの眠りだ。ほどよい疲れは睡眠にも生活にも大切だというが、できればそんなものに頼らずに、毎日を穏やかに眠りたいと思った。

クールランニング

たいていの家庭では一度くらい、冷えた味噌汁を飲む機会があるかと思う。朝寝坊をして食卓に行くと、冷えた朝ごはんが、ハエ避けや手頃なチラシなんかに覆われている。

おれの家では平日の朝はいつまでも起きないでいると強制的に叩き起こされるので冷えた朝ごはんにありつく事はまずないのだけど、一年に一度あるかないかくらいの割合でたまにそういう時がある。その時に、冷えたご飯を冷えた味噌汁に入れてかっこむのが何気に好きだったりする。

 

寝坊をしているのだからゆっくり味わう暇はないものの、いつもの献立がまったく違う食べ物のようになる。あったかい味噌汁とご飯ではこうはいかない。美味しんぼで読んだが、冷えた味噌汁やご飯は甘みが増すらしい。そのせいかもしれない。

 

一人暮らしを始めてから、自分でその冷えた朝ごはんを再現しようとしてみたことがあるが、これがなかなかうまくいかない。

まず炊飯器が現状戦力にならない(1年くらい使っていないので抵抗がある)ので手鍋で米を炊くことになるのだが、鍋蓋もまた戦力にならない(紛失しました)。

実際やってみるとお分かりになるかもしれないが、米全体に均一に熱が通らなかったりして、焦げてバリバリのものか雑炊に似たようなまがいもののどちらかができあがる。

炊くというより煮込むという表現が適しているかもしれない。相手が生米であっても煮込むというスタンスを崩さない手鍋には敬意を表したい。だが今はもう、そういう時代ではないのだ。君は過去長い間自炊に貢献してくれたし、私としても甚だ残念ではあるのだが、君には明日から木綿豆腐のにがり捨て場として働いてもらう。これからの時代(しゅしょく)は冷奴なのだ。すまんな。

それでまあそのまがいものを冷やすとなると、あまり美味しくないんぼになるので、諦めてカレー粉を投入し煮込んでそこそこ美味しんぼに戻すという情けないムーブをすることになる。ちなみに撤退のタイミングを見誤り、冷えた味噌汁を投入するとぜんぜん美味しくないんぼになるので注意されたし。

 

次の休みに車を乗り換えるため実家に帰るのだが、冷えた朝ごはんが食べたいと言ったら複雑そうな顔をしそうだから気が引ける。冷えた朝ごはんというワードは一見寂しいようで、実際は朝ごはんを作ってくれてさらに自分のために置いておいてくれるきちんとした環境がないと成立しないので、優しさに溢れているような気がしてくる。一人暮らしをしていると、特に。

ちなみに家族でインド料理を食べに行く話が進んでいる。楽しみだ。

サイボーグ戦士

気がつくと何日も日記を書いていない。日記を書かないのは日常にとくべつ思う事が無いからなのだけど、つまらないことだって書いていいのだ。

 

日記だから、今日食べたものや見た映画や天気のことだって書いていいに決まっているしそうと決めるのも書くのも自分自身だ。つまらないことを書いたっていい。本当のことだからどうしようもないことだし。

 

じゃあ何で日記を書かないのかというとそれは単におれがものぐさな性格でちょっと面倒くさくてサボっていたという理由でしかない。ただそれだけ。それだけのつまらない理由をわざわざ書いたっていい。日記なのだから。

誰かに怒られるわけでもないし、誰かの為に誰かの顔色を伺いながらするのではない、純粋に自分の為に何か書こうと始めた日記なので、自分が消化できれば面白い内容を書かなくったってどうでもいい。

真面目な話は苦手なのでもうやめます。

 

 

最近は、そう、車を近々乗り換えるハメになった。今の車に愛着が湧いてきたというのに、あと1週間ほどで引き離されてしまう。

次に乗る車は今より新しいけど、格好いいとかは思わない。でも乗れる車がそれしか無く、おれに拒む権利はない。乗っているうちに、同じように愛着が湧くのだろうか。自信がない。

初めての自分の車だったから気に入っていたし、もっと長く付き合っていきたかった。もしかしたらそのことで落ち込んでいたから、日記を書く気力がなかったのかもしれない。そういうことにしておこう。

 

餃子の王将で遅めの昼を食べていたら、付け合わせらしき卵スープが付いてきた。何度か店には行ったが初めて見た。焼きたてのアツアツの料理のなかで、卵スープは人肌に暖かく、猫舌のおれにはとてもありがたかった。

ラー油の入った細長い容器が、ボトルと内容物の色味を合わさって、友達の家のボディーソープにとても似ていた。

ささくれた火

先輩からマッチをもらった。根元をちぎって、固い擦過部とパッケージの蓋でマッチを挟み、引き抜くことで点火するタイプのものだ。要はガムの「Fits」みたいな感じ。

 

マッチを日常で使う場面はごく限られる。実家の仏壇のロウソクに火をつけるくらいだ。それすらもライターやチャッカマンで事足りるし、その方が安全だ。スーパーのレジの前に陳列されている昔ながらの大箱は、買い手がいないのかたいてい埃を被っている。どこかでマッチの製造メーカーが生産をやめたという話も聞いた。理科の授業でアルコールランプに火をつけた時の興奮を思うと少し寂しい。理科が楽しかったのはあれが最後かもしれない。

 

おれも先輩も寮住まいなのでロウソクもアルコールランプもあるわけもなく、使いみちはもっぱらタバコに限られる。ライターより不便なものの、ライターにはない擦過音と木の燃える臭いで新鮮な気持ちにさせてくれる。良いものを貰った。

 

マッチを使うという行為は、もはや非日常に片足を突っ込んでいる状態だ。だからこそ新鮮味があって楽しいのだと思う。このご時世にわざわざマッチを使うだけで、古い映画の登場人物のような、キザったらしい演出を手軽に味わうことができるのだ。楽しくないはずがない。それくらいに非日常になっている。あるいはみんな、マッチを擦るたびにアルコールランプを思い出しているのかもしれない。

 

そういえば、とカバンを漁ってみると、ビジネスホテルのマッチが出てきた。中身はほぼ使っていないので大量に残っていた。

先日飛騨などに旅行に行ったとき名古屋で一泊したホテルのもので、淡白なデザインだが見ていると旅行のことを思い出すことができる。日常のなかでマッチを目にする機会が無くなったことで、お土産のペナントや置物のように、思い出に浸れるアイテムになりつつあるのかもしれない。

いつかラブホテルのマッチを突きつけられて浮気を問い詰められてみたい。

ダミー・バー・ヘッド

開け放した窓から空を見上げたら、蜘蛛の巣を見つけた。ふと手を伸ばすものの、何度やっても空を切る。

はて。どうやら空に巣を張っているようだ。戦闘機が引っかかっている。脱出したパイロットは、やはり蜘蛛の糸に絡め取られていて、むしゃむしゃと食べられた。

食べカスが地上に降る。あの辺りはスラムのはずだ。といっても、ここらはどこもかしこもスラムなのだけれど。スラムに、血とヘルメットの雨が降る。きっとみんな、怯えてすくむ。露店の屋根に穴が開き、くず肉のスープがひっくり返る。

次に戦闘機がスラムに降った。蜘蛛が、その8本ある足のうち3本を器用に動かして、蹴落とした。戦闘機は頭から地上に打ち付けられて、バラバラになる。スラムもまた、戦闘機に打ち付けられて、バラバラになる。頭から血を流して泣く子供。ひっくり返ったスープが冷めていく。墜落現場では、運よく生き残ったものたちが、運よく生き残ったパーツを持ち帰っていった。シートの綿のひとつまみも、割れた計器の針のいっぽんも、余さず全部持っていった。あっという間に、骨組みすら運ばれていって、そこには崩れた石畳だけが、食べカスみたいに散らかっていた。

ふと空を見上げると、蜘蛛が蹴落とされていた。大きな花火が咲いて、なのに、不発弾みたいに、蹴落とされた。けばけばした、縞模様の、風船のように丸い腹が。音もなく、ぐずぐすと、ゆるゆると、けど確実に、スラムに降り注ぐ。僕らはみんな、何も言わず、ただそれを見ていた。

スラムじゅうの、屋根どころか建物全部を突き破り、くずな僕らはたちまち潰されてしまうだろう。もうすぐ蜘蛛と僕らと、怪しい肉の血のスープが、スラムの壁の中いっぱいに注がれる。僕らの世界が、ひっくり返る。子供の泣き声が聞こえる。

自然体

クセがすごいらしい。字の話だ。会議で書記を任されたのでちょっと低めに架けられたホワイトボード相手にに四苦八苦していたら、クセがすごいと言われた。読めない字ではないとのことなので、会議はそのまま続行し、なんら不都合もなく終了した。

 

自分の字がどういうクセなのかを説明したいけどここはインターネットなので難しい。そもそも字ごとに書きかたが違うのできりがない。例を挙げると「る」が「こざとへん」みたいになる。

クセがついた原因は、授業中ノートを取るのが退屈だったのでお遊びで書道家みたいにズバババーンキュッと書いてたら楽しくなってしまったことにある。書道家スピリットのおかげか、汚かった字はかろうじて読めるレベルにはなったけど、今でも心の中でズバババーンキュッって言いながら書いている瞬間がある。そんなんだから真面目に勉強しているようでその実、内容はさっぱり頭に入ってなかったりする。

 

みんなどこかしら字にクセを抱えている。年配の方になると特に。達筆という言い方をするけど若造の自分にはクセがすごいとしか思えない。読めなかったとしても達筆と評されると何も言えなくなるのでずるいと思う。

そんな人にも達筆じゃない時期があって、達筆になりかけのときの字はそれはもうクセがすごかっただろう。

汚い字はともかくクセのある字は矯正する必要がないのでほったらかしになり、年を経るごとに、癌のようにクセの深度は増していく。子供の頃の汚い字から、普通の字なるようにと矯正されて、やがてそれぞれのクセを獲得していく。普通のきれいな字なんて、インターネットや印刷機の中にしかない。クセなんて言っているけど、ほんとうはクセ字なんてものはないのだと思う。みんな自分の文字を持っているというだけだ

スモークガラス

インフルエンザが流行りはじめているというので、使い捨てのマスクをしていた。けれど顎のあたりがとても痒くなって、すぐに外して捨ててしまった。

顎に生えた髭のせいだ。まだ柔らかい髭が固い紙製の生地にあたって、とても心地が悪い。ついでにうつ伏せで寝ると枕にあたってこれまた心地が悪い。

 

剃ったら剃ったで鏡で見る自分の顔にとても違和感があるので剃らないようにしている。つまりおれは、19年髭無しで生きてきた実績より、1年髭を生やして生きてきた現在の「それっぽさ」を信頼している。

髭の存在が、19対1のワンサイドゲームをひっくり返す要因だとは到底思えないけど、実際そうなっているのだ。人の価値観や認識はあまりあてにならないのかもしれない。

 

マスク繋がりでいうと、日曜日にガスマスクをして茶畑の跡地を走り回っていた。サバイバルゲームというやつをしていた。

眼鏡とガスマスクは併用することができず(昔はガスマスク用の眼鏡があったらしいが)、コンタクトレンズを持っていなかったので裸眼でガスマスクをした。視力が少し回復していたのか、あまり困ることはなく楽しくプレイすることができた。

日中はそのまま、休憩中も裸眼で過ごしていたのだけど、スマホ画面の黒色に反射した自分の顔に、また違和感を覚えた。それは、眼鏡をしていないということに対してのものだった。

裸眼で過ごしてきたのは17年、眼鏡をかけたのはそれからの3年だ。また歴史の浅い方である現在に感覚が寄っている。自分の幼少期の頃からの顔を正確に思い出せはしないし、毎日鏡を見るうちに「それっぽさ」は徐々に徐々に推移していくものだとしても、自分が見ている自分が、だんだんと知らない人になっていくようでなんともいえない気持ちになる。

これから先、鏡の中の自分にもはやひとつも確信が持てなくなったとしても、久しぶりに会った友達は「変わらないな」と言うのだろうか。

同窓会行くのやめようかな。