ロックンロール・ラジオ

 キーボードに置いた手が止まってから、一体どれほどの時間が経っただろう。目の前のノートパソコンは、文章作成のためのソフトを起動している。変わらない画面でひたすら文字の入力を待ち続ける姿は、主人を待つ忠犬を連想させた。実際は噛み犬に等しい悩みの種で、有害な光線で俺を苦しめる畜生だが。
 あぐらをかいた膝裏に汗を感じ始めたころ、目の前の画面が光を失った。長時間操作をしなかったので、自動的にスリープモードに入ったのだ。押しつけがましい文明の光が消えたことで、四畳半の箱は闇に包まれた。
 そうした環境の変化にはっとして、ようやく意識を取り戻す。知らぬ間に全身に力が入っていたのか、両手を真上に伸ばすとバキバキと小気味良い骨の音がした。
 仕切りなおしと、ノートパソコンのスリープモードを解除する。霞がかったような瞳に映るのは、当たり前だけどさっきとまったく変わらない画面だ。お座りで待っている忠犬、犬畜生。
 画面の隅をチラリと見やると、今が午前2時過ぎということが分かる。日付は月が変わって、ついさっき8月に入ったようだ。ちなみに夏休みは一週間ほど前に始まっている。
 元々大学はサボり気味だったが、約2ヶ月もの間はるばる大学へ足を運ばなくて済むのは大変ありがたい。かといって自堕落に夏休みまるまる暇を持て余すわけではない。俺は今、ある問題に直面していた。
 パソコンの横、同じ机に置いていたスマホを手に取り、一つだけ登録してあるタスクを確認する。メモには、大手出版社の新人賞の名前と締切日。期限はうちの大学の夏休み終了日翌日。俺はこれに応募する。
 問題は、目の前のお犬様の、見事なまでの真っ白な毛並みのことだ。真っ白、白しかない俺の原稿用紙は未だにただの一文字も入力されていないことを表していた。


 子供の頃から作家になるのが夢だった。何がきっかけかなんて今更思い出せないが、読書家の父の影響とか、たぶんそんなところだろう。ただ自分の考えた話でみんなが喜んでくれたが嬉しかった記憶がある。
 大学生になった時は、その余りある時間を執筆にあて、期待の新星、現役大学生作家として華々しく新人賞デビューしてやろうと鼻息を荒くしていた。しかしどうしたことか、酒とタバコができる年齢になりながら、デビューはおろか、どの賞にも応募すらできていないという有様だった。
 かといって物語を書いていないのかと言われるとそうではない。書いてはいるのだが、毎回書いている自分自身、こんな話どこが面白いんだと思うものしか手元に残らなかった。
 作者が面白いと思って書いていないものが評価されるはずがないと、応募を見送り。納得のいく作品を書きたいと練り直すも手ごたえもなくこれまた見送り。新しい話を練るも同じく見送り。見送り、見送り。
 結果、とうとう一文字も書けなくなり、パソコンの前で固まって身動きできなくなっていた。
 俺の書きたいものって何だったんだろう。もはや何を考えてもボツを出す自分がいて、軽くノイローゼを疑った。
 自分以外の作家を目指すライバル達や著名な作家さん方が、一つの話を書き上げるのにどれだけかかっているのかなんて知る由もない。だが、ただでさえ遅筆な俺に、2ヵ月後の締め切りは無常に思えた。
 今度こそやってやるという熱は、今度こそやらなくちゃ、という焦りとなってもはや邪魔でしかなかった。これ以上同じところで足踏みしていたら、いい加減床が抜けちまう。そこに落ちてしまったとき、俺に這い上がるだけの力はあるのかな。
 ノートパソコンがまたスリープモードに入った。


 また点けなおしたはいいものの、これ以上パソコンとにらめっこを続けても埒が明かないと、マグカップを持って台所へ向かう。
 台所に備え付けられた蛍光灯を付け、ヤカンに水を入れて火にかける。その間にインスタントコーヒーの粉をスプーン一杯すくい、マグカップへ投入する。
 マグカップは長年(といっても2年と少し)のコーヒーのシミでどす黒く、底なんて吸い込まれそうな奈落や井戸の底を思わせた。汚いとは分かっているが、シミは頑固そうできれいにするのは今さら面倒だし、変な愛着がわいていた。お湯が沸いたのでカップに注いで一口すすった。もしかしたら粉を入れずにお湯だけ入れても、その黒さから気づかないかも。
 夏場でも一年中コーヒーはホットと決めているが特に理由はない。空っぽの胃に熱が入るのを感じるが、エネルギーと言い張るには無理がある。空腹を紛らわすために飲んだのに、結果的に空腹を意識するハメになった。が、カップの中身を飲み干して無理やりごまかす。
 執筆の時間のためにバイトもしていないので無駄な出費はできない。節約生活を余儀なくされている。
 空になったカップを流しに戻して部屋へ向き直る。四畳半のなかに嫌でも目に入ってしまう、中央の机の上のノートパソコン。真っ白な画面は毒々しい光で俺の目と精神を突き刺す。
 俺は、机に座る白い犬を思い浮かべた。その目はじっとこちらを捉えて離さない。何を考えているのか表情からは読み取れない。俺の妄想なんだからもっと愛らしくなればいいのに。
 値踏みするような瞳に、どこか同情のようなものを見た気がした。何だ、優しくされたいのか、俺は。
 パソコンの前で屈み、電源を落とした。
 俺は、スマホと財布だけをポケットに突っ込むと、アパートを出た。街頭のまったく無い田舎だが、今日はよく晴れた満月のようで明かりなんて必要なかった。
 俺は胃の中でコーヒーが揺れるのを感じながら階段を降り、ひび割れたアスファルトの上を右も左もなくただ歩いた。


 不思議と静かな夜だった。真夏には珍しく、虫の鳴き声は道路脇の田んぼからのスズムシだけだった。実に風流。日本の夏の夜はかくあるべきだ。どこか儚げな鈴の音は、ひとりぼっちの夜にピッタリで気分が落ち着いた。
 さて、どうしようか。足りない頭で考える。己の中に問いを投げかけても答えはない。
 下へ下へと落ちた問いは、暗くて狭い深層心理を転がってまわりに反響する。深層心理に住まう「俺達」はたまらず声を上げた。どうするって何をだ。小説のテーマか。書けないことか。書けない自分のことか。大学のことか。明日のメシか。卒業後の進路か。今の行き先か。何のことか。何がしたい。何の・・・。
 皆がみんな言いたいことをぶちまける。問いの落ちてきた上を向いて、左右前後の俺たちと肩をぶつけながらエサを待つヒナ鳥のように、全員が大口を開けて一点を見つめる。
 見慣れた俺の顔が並ぶなか、中心にあたりを照らす光が生まれた。「俺たち」は光を中心に端に寄り合い半畳ほどのスペースを空ける。
 俺も、「俺たち」も、もちろんこの光を知っている。まっしろな画面のノートパソコンが、そこにはあった。
 光によってぼんやりとあたりを認識できた。そして瞬時に理解する。そこはアパートの一室。俺の城。仄暗い四畳半に、ノートパソコンを中心に「俺たち」がギチギチに詰まっていた。
 胃のあたりがカッと熱くなるのを感じ、俺は覗きこんでいた穴にふたをした。


 いつの間にやらアスファルトは消え、白土の踏み固められたあぜ道を歩いていた。
 大人二人がやっとの道幅で、両脇には水のはられた田んぼがあり、時折吹く風に揺られる稲の青は夏を感じさせた。
 道には時々、縦長に削られて黒く湿った場所があった。大抵どこの田舎道にもあると思う、他の土とは違いいつも水がたまっている水はけの悪いところ。自転車なんかで通るときはなんとなく避ける。
 ふと、あのアパートに初めて来たときのことを思い出す。部屋に家具や荷物を運び込んでいるときだ。
 地元の親友が免許を取って親から軽トラをもらったというので、引越し代をケチって手伝ってもらった。
 手伝ってもらっている身だが、部屋へ荷運びしているときヤツが玄関の三和土(靴を脱ぐところ)でつまづいて、ブラウン管の角をフローリングに勢いよく叩きつけやがったのだ。フローリングは直径2センチほどへこんでしまい、俺は一階の大家にばれないよう急いで上にカーペットを敷いた。
 当の本人は悪びれもせず、腹を抱えて笑っていた。その姿にもう怒る気にもなれず、最後には俺もつられて「何やってんだよ」と笑って肩を叩き合った。
 この道のくぼみにも、誰かの頭に残るようなエピソードがあるのだろうかと想像してみた。できない。邪魔だし、ただのくぼみだ。冷静に考えたらただのくぼみだこれ。壮大すぎた。完全に疲れている、というか歪んでおかしくなってしまっている。
 しかしこんなもので昔を思い出すとは、頭のどこかで何が作用したのか。
 大学までの学生生活は毎日が楽しかった。くだらない話をいつまでも語り合った。思えば、大学に入ってから笑うことがなかった。気を許せるような仲の良い人もいない。
 一人、この田舎で誰にも知られず夏の暑さに腐っていくのか。とても悲しかった。
 悲しい?寂しいんじゃないのか。人恋しいんじゃないのか。
 ずっと歩きっぱなしだった足を止めて月を見上げた。周りに高い建物がないからか優しく光る満月がとても近くに感じる。
 好きな子でもできたら毎日楽しくなるのかなと、ヨコシマなことが頭に浮かんだ。友達が欲しいとかじゃなく女の子が先に出てきたことに自分でも驚いた。女子とまったく話せないくせにこういうことを考えるという事は、どうやら知らぬ間に人肌の温もりを求めるあまり童貞をこじらせていたらしい。
 こちとらまだまだ若い大学生なのだ、相応の性欲だって持ち合わせている。自分で自分に開きなおって、理想から想像、妄想と欲求はエスカレートする。さっきまでのセンチメンタルはどこへいったのか、頭の中は肉欲にまみれていた。
 今思えば、書けない悩みを忘れたかったのだろう、久しぶりに固くなった頭にヒビを入れてピンクの甘味料を染みこませた。


 気づけばまたアスファルトの道を歩いていた。舗装されていない地面はきらいじゃないが、乾いた砂などで踏んだ時はすべることがまれにあるので、しっかりと前に踏みこめるアスファルトの方が好きだ。ぎゅっと踏みこんだ時の確かな手ごたえ、というよりは足ごたえが嬉しい。
 先ほどより田舎臭さが減り、深夜といえども少し車通りのある道路を今は歩いていた。やがて、月以外の光が俺の目に飛び込んだ。
 正面、遠くにぼんやりと光る直方体があった。山や田んぼに不釣り合いな光に、夏の夜のワビサビというやつが削がれたようで少しむっとする。けしからん。
 建物と同じように光を放つ看板の大きな一文字でそこが本屋であることがわかる。どうでもいいが、本屋の「本」と一文字書いてある看板は分かりやすく小気味良くて俺は好きだ。
 本屋の名前が確認できる近さになってから、そこがアパートから自転車で20分の店であったことに気づく。最寄の本屋でもないし今までこんな夜に行ったことがなかったので、雰囲気が違ってわからなかった。
 それにしても24時間営業だったことを初めて知って驚いた。こんな田舎には不自然な営業形態。ここらじゃコンビニすら23時には終わるというのに。
 自販機の光に吸い寄せられる羽虫のように自然と足が向く。店内へ入ろうとしている自分にはっとした。
本屋には本がたくさん売ってある。いつか俺の本も並べばと思うが、ここはプロたちの珠玉の完成品が詰まった箱。今俺が見れば比べるのも大変おこがましいがそのレベル差に、とうとう俺は俺でいられなくなってしまうのではないか。
 まぶしい光から目をそらしたい。怖い。逃げ出したい。でも、物語を作ることを諦めた俺に、一体何が残るというのだ。声がする。待ってくれ、今そういうことを考えたくない。しかし俺の意思とは反対に思考は加速する。現実から目をそらすのか。声が頭蓋に響く。そうじゃない。思考はピンボールめいてあちこちにぶちあたる。逃げるのか。黙ってろ。もう書けないんだよ、お前は。黙っていろ!
 誰に問われているのか。誰に答えているのか。色白の顔は赤く上気し、足はすくんで手のひらにはべったりと汗をかいていた。
 その場にしゃがみこんでしまいたくなったが、その時本屋の自動ドアが開いてしまった。なんだかんだ、気づかぬうちに入口の手前まで来てしまっていたようだ。
 入口の右手のレジに居た女性店員が首だけでこちらをイチベツし、無表情に形式だけの歓迎を表す。ググッと爪を食い込ませるように手汗でぬれた両手を握りこんだ。口内はおろか喉の内壁にまで渇きを覚えて、思わず飲み込んだツバの異物感に吐きそうになる。
 出入り口で止まるわけにもいかず、鉛のように重くなった足をなんとか前に出し、ピカピカな床の白ゆっくり踵から踏んだ。ひとまず、文庫本コーナーとは真反対の雑誌コーナーへ。
 今夜のことは忘れよう。部屋へ戻って、すべて忘れてただ泥のように眠りたかった。
 しかし、このまま手ぶらで帰れば負けて逃げるようなものだと考えている自分が居た。重さも軽さもない、その存在すら怪しい妄想の産物のようなこんなプライドでも、最低限の俺の生命維持装置なのだ。生きてくために手放せなかったものなのだ。
 オーバーヒート寸前の頭を、目をつぶり深呼吸して無理矢理落ち着かせる。三回呼吸したあたりで何とか店内を見渡すほどの余裕はできた。どうやら店員は3人。一人は今もレジの中で棒立ちの女の子。もう二人は、赤本の前で私語に夢中な大学生くらいの男女だ。
 レジの女の子は俺と同じか1つ上だろうか。子供っぽさの抜けきらない顔。そして、でかい。身長の話だ。目を引くような大きさから、俺より10か15センチも上だと推測する。俺が小さいという訳では決してない。大体平均サイズの175だから、あの店員さんはかなりデカイということだ。
 だが身長よりも、どこか上の空の伏し目がちな黒い目に引き寄せられた。大きな瞳だが、眠たさやけだるさからか少し細められた目元が、ミステリアスさとそこはかとないエロスを振りまいている。
 あまり長く見つめると目が合ってしまいそうなのでまた店内を見渡した。どうやら俺のほかに客は一人だけで、野球帽を目深にかぶった男が、文庫本の棚の脇にある一人がけのイスに座っていた。表情は見えないが、首もとのよれた灰色のシャツや、文庫本をめくる指のシワから察するに相当な齢だろう。老体に鞭打ってこんな時間に本を読みに来る理由が気になったが、考えてもしかたないので意識から外した。
 店内の様子が確認できて冷静に考える頭が戻ってきている。とはいえまだ若干の焦りがあるのか、目の前に並ぶ漫画雑誌の派手な表紙に目がすべってあまり情報が入ってこない。
 と、左へ目を向けると、他の棚との差別化を図る仕切りが見えた。横から覗けないように大きくデザインされた緑のそれには、成人向けの文字が。普段あまり雑誌コーナーをうろつかないから知らなかったが、大型の書店(田舎基準)にもエロ本はあるのだ。
 一筋の光明が差した気がした。深夜にほぼ俺一人という環境。本を買ったから帰るという自分への口実もできる。それにエロ本は普通に欲しいとさっきまで考えていた。脳ミソの隅にこびりついたピンクが蛍光色に輝きだす。渡りに船。買わない理由はない。善は急げだ。善ではないような気がしたが、じっくり選ぶ心の余裕はない。
 仕切り越しに目も向けず、最初に手に触れたものを引っ張り表紙も確認せずレジへ足早に歩き出す。詳しい内容なんて気にしてられない。出たとこ勝負。装った自然体、それでいて走るような歩行。願わくば、レジの女の子に軽蔑の目で見られないことを祈ろう。
 表紙に這わせた指に汗がにじんで、過剰に力が入る。別にエロ本を買うこと自体に緊張してるわけじゃない、この動揺は別にあるが、平静を装い裏表紙を上にしてレジに出した。
 なるべく店員さんの方を見ないように自分の靴の爪先を見つめながら、尻ポケットに突っ込んでいた財布を引っ張り出す。
 やがて電子音がして、頭の上から店員さんの声が聞こえた。
 「410円になります」
 きれいな声だと思った。俺が普段女性と会話しないからか。童貞をこじらせすぎたんだろう。
 「ポイントカードはお持ちで・・・」
 マニュアル通りの口上を述べながら、店員さんが本を表紙へひっくり返す。
 最後まで俺の耳に届かなかったのか、それとも最後まで店員さんの口からでることがなかったのか。少なくとも俺の感じる世界から音が消えた。なんてこった。表紙に写る女性は扇情的な黒の革に身をつつみ、白い太ももをこちらに見せつけている。知っている。この服はたしか、ボンテージとかいうやつだ。タイトルなどから察するにSM専門の雑誌、しかもM向けのハードな。
 頭の中でパトランプが点灯する。非常にまずい。選択を誤った。どうか誤解しないで欲しい、俺にこんなシュミは無いんだ。俺は・・・。
 はやる気持ちに思わず顔を上げてしまう。身長差から俺が店員さんの顔を見上げ、覗き込む形になる。今俺はどんな顔をしているのだろうか。若干涙目になりそうな心境で、傍から見れば、ビクビクとおびえながら許しを請う子供のように映ったかもしれない。
 ある意味それは正解といえよう。
 店員さんと目が合ってしまった。最初の一瞬は俺にピントを合わせるように、彼女の目はわずかに見開いた。何を考えているのか分からないがこちらの考えは全て見抜かれているようで、ヘビににらまれたカエルの気持ちに近いものを感じた気がした。思わず萎縮してしまい目が離せなくなる。あまり見つめると、その瞳の深さに戻って来れないような気さえしたが、どうにも駄目だった。
 困惑する俺に何か満足したのか、店員さんはすぐにまた先ほどのように目を細めた。でも一見同じ表情に戻ったようでどこか違う。なんとなく、目尻が柔らかくなったような。そこで俺はようやく、店員さんの姿をきちんと捉えることができた。
 全体的に化粧っ気は薄く、唇は水気を多く含んで柔らかそう。肩にかからない程度のショートカットは澄んだ黒の色をしていて、整った顔立ちについ見とれてしまった。
 「ポイントカードは、お持ちでしょうか」
 店員さんは俺にもう一度、今度は笑顔で問いかけた。苦笑いや軽蔑の笑みではなく、優しく諭すように問いかける聖女のような、それ。はっとして、思わず軽くどもりながら持っていないと答える。
 早いところ支払いを済ませて帰ろうと思い、レジに500円玉を置いた。それと同時に手早く紙袋に入れられた本がレジの上に差し出される。
 500円玉を受け取った彼女は慣れた手つきでレジを操作する。やがて吐き出された短いレシートと、50円玉と10円玉が4枚、彼女の大きいながらも白くきれいな手のひらに握りこまれる。吸い込まれそうな白。実際俺の目はその白い指に吸い込まれた。
 お釣りを受け取りに俺は右手を向ける。すると彼女は、硬貨を持っていない左手で、突き出した俺の右手の甲を優しくなでるように包みこんだ。
 予想外の行動に口から心臓が飛び出そうになる。冷房の効いた店内に長時間居たからか、真夏だというのに指の白さと相まったその冷たさに声が出そうになる。ドクンと心臓が一際大きく脈打つのを感じる。そんな俺の動揺を知ってか知らずか、間髪入れずに、開かれた俺の手のひらにお釣りとレシートを挟んでその白色を覆いかぶせ、右手を上下で包み込んだ。
 どうしてこんなことを。手汗の分泌に拍車がかかる。汗、気持ち悪くないのかな。彼女の、その手にこめられている確かな力が、右手に伝わってくる。こんな本買って、この子は俺を軽蔑しないのか。色んな考えが頭を駆け巡る。
 すでにお釣りは俺の手の中にあり、硬貨は次第に熱を帯びていく。しかし店員さんは俺の手を離そうとしない。むしろだんだんと力がこめられているような。彼女の手の中で、俺は硬貨を握りこむ。時の流れがとてもゆっくりに感じられた。レシートのインクが汗でじわりと滲んでいく。少しずつだが、こんな可愛い女の子に手を握られている、人と触れ合っているという実感が少しずつわいてくる。人と人は触れ合うだけで満たされるところがある。自分で笑ってしまいそうになるが、このとき、一つ人間として豊かになった気がして、今まで生きてきて初めて神様に感謝した。
 勇気を出して手から顔を上げると、さっきとは違い自然と目が合った。彼女は穏やかな笑みを浮かべ、また目を細める。俺は彼女に何かを言おうとして口を開いたが、何を言っていいのか分からず、ただ唇がわなわなと震えた。顔に血が上るのを感じ、黙って初めて酒を飲んだ子供のときのように、体全体にかあっと熱くなる。急加速した血流に、頭の先から爪先まで電流が走るかのようにビリビリとシビれた。朦朧として確実にまともじゃない状態だったが、俺は彼女の手を汚したくないと思って、やや強めに右手を引いた。
 外気へと乱暴に放り出された俺の手、汗のせいか、すこし肌寒かった。店員さんは少し驚いていたがそれも一瞬で、脇に置いていた商品を両手に持つと、賞状を生徒に授与するように差出し、首をわずかに傾けて俺に微笑みかけた。
 他に客が来ないから、時間をかけて丁寧に接しているだけなのかもしれない。そこに深い意味が無いのだとしても、こんな俺に向けられた、一人の人間の思いにぐらぐらした。冷たい指だったが、そこに温もりは確かにあったのだ。
 頭痛がする。涙が出そうだ。胃のあたりがギュウっとしめつけられて吐きそうになる。なかなか商品を受け取らない俺に、店員さんは少し困ったような表情を浮かべた。でも、差し出した両手を下ろそうとはしない。今の俺に、受け取る資格は無いと思った。
 泣き出しそうにうるんだ瞳で、もう一度店員さんの目をみる。
 店員さんはそれに応えるように口を開いたが、声が耳に届く前に、俺は本を受け取らずにその場から走って逃げ出した。
 

 店を出る際の自動ドアの開くスピードに肩をぶつけたとき、何か聞こえた気がしたが何も聞き取れなかった。元来た道を、無我夢中でただ走った。 
 普段運動していないせいですぐに意識はぼうっとした。脳に送られる酸素も少なくなって、今出しているのが右足なのか左足なのかの判別すらできない。ちっとも空気が入らない肺。心臓はパンク寸前で半ば視界がブラックアウトしてる。それでも、足を止めることは無かった
 もはや自分の必死な呼吸音すら遠く、他人事のよう。月光に照らされた夢の中のような薄暗闇を、自分の心臓の音だけが支配していた。
 俺はなぜ逃げ出してしまったのか、何がそうさせたのか、自分でもよく分からなかった。何を得たのか、はたまた得られなかったのを知ったのか。
 何回も何回も体の中をぐるぐる回る問いに俺は答えられない。
 彼女にまた会いたいと思った。会うことで分かるような、彼女が、答えを持っているような気がしたのだ。
 また今度。そう、二ヵ月後に、深夜またあの本屋へ行こう。二ヵ月後にはこの蒸し暑さも、涼しい夜風の吹く秋に変わるのか。それまでは何とか頑張って生きて、面と向かって話せるようになりたい。そのために、それまでに、やるべきことがあった気がするんだ。


 小説のテーマはまだ決まっていない。二ヵ月後の締め切りなんてあっという間だろう。だけど今は、頭の中に湧く文字の濁流で決壊寸前だった。一文字たりともこぼして忘れたくなくて、四畳半めがけてただ足を動かした。
 右手に痛いくらいに握り締めた10円玉と50円玉は熱を帯び、汗のせいで金属特有のむせるような血のにおいがした