ネックサイド・アプローチ

 その日はとにかく寒かった。今冬最大の寒波だって街頭のテレビもラジオも騒いでる。けど、そんなのは家に帰ってこたつなりストーブなり点ければ吹っ飛ぶ話だ。対して俺は暖房のある店に入るかドラム缶のたき火の輪に加わるかしないと体を暖めてやれない。ベンチコートの中で、己を抱くように腕を組み、ダンボールの床に敷いた毛布の上に寝転んだ。
 東京は晴れ。街を歩く人々は当たり前のようにその恩恵に預かっているけど、俺の居る路地裏にはその権利が無い。貧しい俺たちに与えられるのは、わずかな日光がが反射して摩天楼の陰ををかすかに照らすだけのおこぼれ。
 一応俺の右手には表通りに繋がる出口が見える。眩いばかりの暖かな日の光が少し路地裏に差すものの、そちらへ出たところでホームレスの居場所なんて無い。それに昨日は工事現場の日雇いで筋肉痛だ、何もする気になれない。でも寒い。俺の目の前に札束の詰まったボストンバッグでも落ちてないものか。
 その時、表通りから差す貴重な光が突如、黒い影に遮られた。
 右手を見やると、背の高い男が立っていた。逆光なのでよくわからないが、肩幅に開いた両足はしっかり地に足がついている印象で、落ち着いた物腰というか、力強いどっしりとした存在感を感じた。男はゆっくりとこちらに歩み寄る。男は重そうな革のロングコートに灰色の帽子、革靴という、ゴミだめにはどうやっても釣り合わない格好だった。地を蹴る靴の音を楽しむがごとく、踵から一歩一歩、悠然と俺たちの住む世界に足を踏み入れた。
 頭まで俺と同じ暗闇に飲み込まれたとき、やっと男の顔を見ることができた。男の顔は乾いた樹皮のように深いシワだらけ、眉毛と髪は同じ白色という老人だった。しかしシミやたるみは少なく浅黒い、老いを感じさせない締まった顔つきだ。目は一重まぶたで小さく、白内障とかいうやつなのか、薄い黒色が俺の不安を煽った。
 やがて老人は俺の前でその足を止め、乾燥した唇を上下に開いた。わずかに見えた老人の歯は、薄暗がりの中で目立った。作り物じゃない、自前の歯だとすぐに思った。
 「お兄さん。隣、空いてるかい」
 腹から出る類の、低くよく通る声だった。見た目もちょっといかついものだから、人によっては怖い印象を持っても仕方ないかもしれない。
 だが俺は、不思議とそんなことは感じなかった。金は無いが時間はうんざりするほど持て余している。断る理由もなかったので、何も言わず体を起こし、ダンボールの左端にあぐらをかいて老人にスペースを空けた。
 老人は「ありがとよ」とだけ言い、右ひざを立てて腰を落とした。お互い、壁にひっつく室外機にならってビルに背を預ける。老人は帽子を脱ぎ、鼻で深く息を吐いてからまた口を開いた。
 「ひとつ、ジジイの独り言に付き合っちゃくれないか」
 老人の目は正面のビル壁の一点を見つめた。俺はまた何も言わず、頭を上に、狭い青の空を見つめた。
 ビルどうしの間に差し込む貴重な光の柱の中、カビとホコリが宙を舞う。
 老人は低い声で語りだした。
 「昔の話さ」


 昔、ある農村に男の子が生まれた。どこにでも居る普通の子だ。よく遊んで、笑って、泣いて、怒って、よく食べてよく寝る健康男児。村の皆にはよく可愛がられ、男の子もまた村と村のみんなが好きだった。
 月日は流れ、男の子は少年といえるほど大きくなった。少年は家の手伝いもするようなったが、同時に学校へも通い始めた。村だけが全てだった少年にとって、学校で学ぶことは何もかもが新鮮だった。期待と希望で瞳はキラキラと輝き、自分の世界が広がっていく実感に酔いしれた。
 やがて、家の手伝いも忘れて勉強にのめりこんだ。先生に頼んで使わなくなった上級生の教科書を貸してもらったりもした。そんな勉強熱心な少年を、村のみんなは神童だと持ち上げた。そんな立派なものじゃないからよしてくれと少年は言うがその実、嬉しくないわけがなかった。
 「自慢話ならよそでやってくれないか。俺みたいなホームレスに子供の頃を引き合いに出して優越感に浸ろうってかい」「まあ聞け、ここからが肝なんだ」
 ある夜、少年はいつものように床に就いたものの、まったく眠れなかった。草木も眠るとはよく言ったもので、深い深い夜はもはや自分の鼓動が聞こえるほどの静けさだった。まるで深海に一人沈んでいくような、光の無い、しかし闇ではない無に落ちていく錯覚。今、そこに自分の手足が本当にあるのかはっきり認識できないほどの黒に飲まれたなかで、頭の中だけが異常に冴えきっていた。
 現実の体を捨て、思考だけの存在になった気がした。頭の中だけが今のあらゆる全てで、思考だけが娯楽だった。少年は永遠ともいえる夜の中、ひたすらに自分の世界に没頭した。まぶたの裏では自分は何にでもなれる。流浪の侍となって悪をくじき、総理大臣となって日本を引っ張り、果ては自分の住む村を妖怪から救う英雄に。
 「子供なら誰しも通る道だと思うがね。お兄さんも、小さいころよくやらなかったかい」「俺は全部で4回くらい世界を救ったな。大きくなってからの方がやってる気がするけど」
 しかし少年は仮初めの自分を夢想するだけでは飽き足らず、思考の矛先を現実の自分に向けてしまった。純粋な好奇心は時に災いをもたらす。それだけは深く考えてはならないある種の禁忌だった。
 そもそも自分とは何なのか。どこから来て、何が目的で生きているのか。死んだらどうなるのか。なぜ自分だけが、自分として生を受けたのか。自分以外の他人は、本当に一人ひとり意思を持っているのか。自分がここに居る意味とは。
 自分の生まれる前や死後にこの世界はあったのか続くのか。観測する術がなければ、存在しないのと同じじゃないのか。
 何のための自分。何のための世界。何のために、自分は生きている。普通なら、考えても分からないから仕方ないと投げ出す人類を挙げたミレニアム懸賞問題を、少年は考えた。考えすぎてしまった。もし途中で意識が薄れ、朝まで眠ることができたなら。起きてから、寝起きの頭で寝る前のことを夢として思い出せずにいたのなら、その後の人生が大きく違っていただろう。
 やがて少年の体を光が包み込む。日が昇り、少年と少年の寝床が明かりで満たされる。しかしその目に昨日まで輝きは見られなかった。無垢な好奇心は一夜にして呪いとなり、少年を蝕んだ。少年でいられた時間あまりにも早く、あっけなく終わった。


 「それからはもう何するにも、ぱっとやる気がなくなったんだ。何にも興味なくなってどうでもよくなって、何をしてもこんなことに意味ないいだよなって思考放棄して。仕方なく飯は食うし便所にも行くが、何やっても身が入らないんだ。何一つ本気になれないし、物事を心から楽しいと思えなくなった。河原で一日中寝転んで、学校にも行かなくなった俺を大人たちは失望したろうな」
 老人は目をつぶったままうつむき、自嘲気味にくっくっと肩を揺らした。ここまで聞く限り、なかなかに複雑な幼年期を送ったようだ。しかしこの老人からしてみれば、見ず知らずの俺にもはや苦笑交じりに話せる内容なのだ。
 遠い未来、俺が老人と同じ歳になったとき、はたして今のどん底ホームレス時代を誰かに笑って話せるだろうか。今までの事実を否定しない、逃げない。将来、そんな人間になりたいと、隣に座る老人に純粋に憧れた。
 「そういうことを考えすぎるといずれ自我が崩壊するって、どこかの偉い人が言ってた気がする」
 俺はまだ空を見上げていた。お互いに隣へ顔を向けないという暗黙のルールが出来ていたからだ。俺が勝手に意識して守ってるだけかもしれないが。
 「あの時の俺はまんまとそれにはまってたんだな。でも顔も知らない誰かの、とても便利でぼんやりとした哲学を受け入れて、なあなあで程よく切り上げるほど大人じゃなかったし、要領もよくなかった。諦めの悪さがアダになるとも思ってなかったが」


 初めは心配してくれた家族や友だちも、時が経つにつれてだんだんと離れていった。どんな言葉をかけても無駄だって分かったんだろうな。一人になっていくことにもどこか他人事のようで、何も思わなかった。
 季節は過ぎ、少年の体は青年のそれへと成長しつつあった。しかし反対に村の目は冷ややかなものとなり、通りすがりに挨拶もされなくなった。村にとって、俺は居ないも同然の過去の人だったのだ。
 そしてある真冬の夜、十五を迎えると同時に手紙を残して家を出た。
 まだ地面に降りかかっただけのふわりとした雪が積もっていた。幸い吹雪いてはいなかったので、月明かりとそれに反射する雪の白を頼りに、線路沿いを青年はただ一人歩いた。家には卒業を目前に控えた弟が居たし、家族も負担が減ってせいせいしているだろう、寂しさも負い目も特に無かった。村に未練も無い。このまま家族がタダ飯喰らいの置物を抱えることはないと思っていたし、何も変わらないことだけは分かっていた。
 あまり深く考えずに東京を目指した。東京で色んなものに触れることで、意味がどうとか関係ない、本気になれる、自分を変える何かが見つかるだろうという漠然とした期待があった。
 「いつの時代も若者は変わらないんすね。頭が根拠のない期待と謎の自信でできてる」「若さゆえの無鉄砲は立派な武器の一つさ。そうじゃなくても東京で生きるには手ぶらじゃいささか心細い」
 青年は東京の南の方で下宿を借りた。下宿先はおばあさんが一人で、無愛想な青年を暖かく迎えてくれた。
 金がないので働かざるを得ない状況だったが、定職には就かず様々な職場を転々とした。色んな世界を見て、経験して、触れたかったから。という理由もあったが、辞める原因はもっと根本にあった。
酒蔵、新聞社、教師、自動車の修理工房、何でもやったがどれも半年と続かない。仕事に慣れてきたところで、いつもの問いが湧いてくるのだ。今、汗を流しているこの行為に何の意味があるのか。ただひたすらに時間を捨てているような気さえして、樽の底を掻き揚げる手が、手帳をめくる指が、止まった。
 そうなるといつも、また新しい刺激を求めてその日のうちに辞表を書いていた。
 「最近でも新卒の三割はすぐ辞めちゃうらしいですよ」「お兄さんもその一人かい」「ノーコメントで」
 暇なときや次の仕事を見つけるときまでなんかに、青年はよく散歩をした。せわしなく姿を変える東京の街並みは見るに飽きなかったし、諸行無常というか栄枯盛衰というか、人の営みに触れた気がして少し楽しかったのだ。仕事は長続きしなかったが遊ぶ金もなかったので、散歩は数少ない楽しみの一つとして、青年の空虚な心に根付いた。
 黙々と無感動に働いて辞めて、働いて辞めて、たまに散歩する日々が積もりに積もって三年が経とうとしていた。下宿のおばあさんが作ってくれるご飯と、安くて手早いかけそばだけを食べる毎日。身なりに気を遣う考えも余裕もなく、しばらくは村を出たときのボロを着ていたし、髪や髭は誰かに切れと言われるまで伸び放題。そんな無頓着さでよく街をうろつくものだから、道端に小さく固まった主婦達が通りかかる自分のことを世捨て人だと揶揄した。本人たちは小さく声を忍ばせてひそひそ話している思っているのだろうが、笑い声は町内を轟かす下世話な公害だ。
 しかし世捨て人とは、なるほど的を射ていると思わず笑ってしまった。村を出て東京に来て一人、自分は何をしているのだと。
 そんな時、おばあさんから見合いに興味はないかと言われた。所帯を持つ気なんてさらさら無かったし持つべき人間じゃないと思ったが、世話になっている手前、断れなかった。聞けば相手はおばあさんの友人の孫娘で、青年と同い年だという。
 「下宿とかお見合いとか、明治の文学みたいでロマンがありますな」「言いえて妙だな」
 相手の女性はきれいな人だった。目に力がある、一本筋の通った気持ちの良い女性という印象だった。自分にはもったいないできた人だったため、俺と一緒になるのは可愛そうだと、この席を破談にしようと考えた。
 なんとか相手が自分との結婚を嫌がる、そのために青年は自分のことを語り始めた。考え込む性格で、何のために生きていいかわからず村を出たこと。未だに答えがでず定職にもつかず世捨て人と蔑まれていること。気づけば、話すつもりじゃなかったあの夜のことまで、包み隠さず全てを話していた。
 思えば、他人にこの苦しみや悩みを打ち明けたのは初めてだった。今までの全部を話し終えた後、申し訳なくなって目も合わせられなくなった。しかし女性は青年の話を全て受け止め、理解したうえで、共に生きたいとそうはっきり目を見て言った。青年は一人ではなくなった。
 「青年は初めて恋をした・・・っていう展開ですか。素敵じゃないですか」「素直にそうだったら良かったんだけどなあ」
 下宿を出て、そう遠くないところに二人で家を借りた。そのまま定職に就かないわけにもいかず、貿易会社に勤めた。もう一人ではないのだ。守らなければならないものができたからと、もういきなり仕事を辞めるという事はなくなった。所帯を持ち、家を守らんと動く姿は、青年から一皮むけた大人のそれへと成長した。
 それでも考えこむ時間はあった。しかし魂が抜けたようにぼんやりとした時は、妻である彼女が寄り添ってくれた。そうすると少し気分が穏やかになって、楽になる。
 散歩を、今度は一人ではなく二人でよくするようになった。つかの間の安らぎに包まれたような気持ちだった。だが意識の底には、これまでとは別の虚無感に似たものが、じわりと滲んでくるのを確かに感じていた。


 「でもジュージツしてますね。環境が変わって立派になったし、うらやましいなあ」
 俺も愛されたいと思ったが、まずはこの現状から抜け出さなければ希望はほぼ無いだろう。ため息が出る。それができれば苦労しないというのだ。少し感傷的になって、鼻の下を右手の甲で雑にこする。タバコが吸いたくなった。
 数秒の間会話が途切れる。といっても、隣の老人がさっきまでほぼ一方的に話していたのをやめただけだ。俺は空を見上げるのをやめ、5メートルくらい先の地面を見るように視線を落とした。
 先ほどと比べて、老人のまとう雰囲気が少し変わった気がした。真横に瞳だけを動かしてみるが具体的には分からない。どんな顔をしているのか、どんな目でどこを見ているのか、その口でどんな言葉を紡ごうとしているのか。
 「でも彼女は死んだんだ。結婚して十年も経たないうちに」
 その止まった時の中で、老人は何を考えただろう。やがて開いた口から生まれた声は、わずかにうわずっているようだった。俺は気づかない振りをして、黙って次の言葉を待った。


 ガンだった。それも末期で、医者に診てもらった時点で余命もあとわずかだという。
 日々衰弱していく妻に、俺は何もしてやれなかった。謝りたかった。彼女はこんな俺に寄り添ってくれたというのに、与えられるばかりで。
 彼女の死ぬ三日前、約束してほしいと頼まれた。彼女から何かを望むのは、初めて会った見合いの席以来だった。寝たきりの彼女の口元に耳を寄せ、その手を握った。どんな願いでも必ず果たす覚悟だった。
 毎日きちんと三食食べること。仕事は辞めないでちゃんと続けること。飛び出したきりの実家に顔を見せに帰ること。そして、あまり深く考えすぎないで。難しい顔をしないで、と。消え入りそうな声で、しかし美しい笑顔で微笑んだ。
 その日、彼女をおぶっていつもの道を散歩した。日なたを避け、道の端っこを歩き、たまに立ち止まっては芽を出した名も知らぬ花の話をしたりした。彼女は一言、俺の肩に顎を乗せ頬を寄せ、ありがとうとだけつぶやいて目を閉じた。
 それが彼女の最後の言葉だった。そのまま二度と目を開けることの無いまま、三日後彼女はこの世を去った。
 仕事は辞めることなくまじめに勤めた。一度実家には帰ったが、懐かしい風景や老けた両親を見ても何も思わなかった。毎日三食をこころがけたが、いつの間にかまたかけそばばかりを食べるようになった。考えこむ時間は、増えた。散歩もいつしかしなくなった。
 定年を迎え会社を去ったとき、いよいよ一人になったと思った。一人になって分かったことは、虚無感に似たものの正体のことだ。あれは、愛する人を失うことへの恐怖だったのだ。
 彼女を好きになったと同時に、いつか来る終わり、別れを意識してしまっていた。せずにはいられなかった。いつか来る終わりへの漠然としたおそれ、失ったときの喪失感。彼女の細い体を、両手で力強く抱きしめるほどに胸を衝く痛み。
 でももう彼女はけして帰っては来ない。あのころ、まだ来てもいないしょうもない恐怖におびえ、満足に愛してやれなかった臆病な自分を、ただ恥じた。
 内外ともに空っぽとなり、それからまたしばらく、かけそばをたぐる日が続いた。


 「子供は居なかったんですか」「居ないよ」
 端的に答えが帰ってくる。その時、俺は初めて隣に座る老人へ顔を向けた。
 少し遠い目をしたその顔は悲壮感を感じさせたが、それだけではない。昔を回顧するようなそれは、あのころとは違う視点から振り返るものだ。つまりこの老人は、そんな過去を乗り越えて今、俺の隣に座っている。
 なぜ、どうして乗り越えることができたんだと、俺は老人に問うた。いつの間にか感情移入して、老人の過去に自分を重ねてしまったのか。まったく共通点などない他人の人生なのに、俺はすがるように答えを乞うた。うまく気持ちがコントロールできず語気を荒げてしまったようで、こちらを向いた老人は面食らったようだ。
 老人は俺の目を見て得意げな顔でこう言った。
 「お兄さん、青春18きっぷって知ってるかい。」
 白くにごった瞳の奥に、少年の輝きをみた。


 青春18きっぷ。それはJRが取り扱う乗り放題切符で、JR全線が利用可能となる。利用期間の制限などはあるが、使い方次第で通常より比較的安価で移動できる。主に学生が使うものだが、それは時間と体力を犠牲にするからだ。注意すべきは、利用できるのはあくまで普通列車などで、新幹線は利用できない。
 「それくらい知ってるさ、だけどどうして・・」「決まってるだろ、青春のためさ。暇を持て余してたから、死んじまった青春を取り返しに、ちょっと遠回りな散歩をしようと思ってな」
 死んでしまう前に、未だ果たせていなかった最後の約束を果たしておきたいと思い立ったんだ。難しく考えないで。
 予定も行き先もろくに決めず、いつかのように考えなしに無鉄砲に、俺は停まっていた電車に乗り込んだ。その電車が前に進むのかも後ろに進むかも知らぬまま、少年の心でまだ見ぬ景色に思いを馳せた。全て忘れて窓からの景色を楽しんだ。北は北海道南は鹿児島まで、歳を忘れて馬鹿みたいに乗りまくった。
 道中、この景色を死んでしまった彼女に見せたかった、一緒に来たかったと、何度も泣きそうになった。でも俺が死んだとき、この景色の数々を彼女の土産話にしてやろうと目に焼き付けた。
 腹が減れば見知らぬ駅に降り立ち、そこで立ち食いそばを食べた。夜になれば駅前のホテルで泥のように眠り、翌日の始発に飛び乗ってその土地を後にする。そんな慌しい旅だったが、進む先の全てが、けして同じものじゃないことがどこか嬉しかった。思えばこの旅で初めて、かけそばがうまいと思ったかもしれない。以前までの、というか少年の頃からの俺が嘘のように、見るもの全てが新鮮だった。彼女に会えなければ、俺は空虚のままだったろう。
 やがて長く続いた旅の終わり、俺はある駅に降りて立ち食いそばに入った。名も知らぬ、おそらく二度と立ち寄ることのない駅。長旅で心身ともにボロボロの状態で、かけそばばかりでは限界だった。見たこのないメニューを見つけた俺は、過去の決別のつもりで最後にそばを頼んだ。すぐにそれは出てきた。名前のとおり、馬鹿正直にひねりもなく、コロッケを乗っけただけのそれが。
 「その時、旅の終わりにわかったのさ。意味なんて無いって」


 「意味なんて無かったのさ。俺はそのとき、うまく説明できないけど、ものごとに意味なんて無いってなんとなく分かったんだ。長い長い呪いが解けたようで、食べながら年甲斐もなく泣いちまったよ。結局、俺は考えすぎのただの臆病な馬鹿だったのさ。くだらない妄執にとりつかれて一人の女も愛せてやれなかった。後は死ぬだけってときに気づくもんだから、うまくいかねえもんだなあって笑いそうになったよ。今まで生きてきていろいろ思うところもあったけど、俺の人生で俺が言えることは、コロッケそばも悪くねえってことだけさ」
 老人の目の端から涙がこぼれた。顔は笑っていたが、あふれる涙は止まることなく笑顔で深くなったほうれい線を伝った。
 「案外によく泣くじいさんだ」俺は軽口を叩いて一緒に笑った。すると老人はより一層目を細めて笑い、また涙がこぼれた。
 老人はコートの内ポケットからタバコとジッポーのライターを取り出すと俺に差し出した。
 「お兄さんにやるよ。こんなジジイの戯言に付き合ってくれた礼だ。どうせ俺にはもう必要ないものだから。若いんだから無鉄砲にやりたいことやって、らしく生きてくれ」
 渡されたのは年寄りがよく吸う、昔ながらのロングピース。キツイやつだ。
 俺が受け取ると、老人は帽子を押さえながらその重い腰を上げ、骨を鳴らす。
 「最後に、誰かにこんな馬鹿が居たってことだけを憶えてほしかったんだ。お兄さんは俺みたいになってくれるなよ。」
 涙はそのままに、老人は笑顔でそういうと背を向けて元来た道を歩き出した。その大きな背中に俺は立ち上がって声をかけた。
 「でも、後悔してないんだろ」
 出口の手前で老人は振り返る。表通りからの光で逆光にになり、老人の顔は見えない。笑っているのか、泣いているのか。
 「ありがとう」
 よく通る声だと改めて思った。老人は黒い影を残して、路地裏の暗闇から表通りの白い日差しの中に消えていった。俺は老人が見えなくなった後もしばらく、その白い光を見つめた。

 シケモクじゃない、ちゃんとしたタバコに火をつけるのはいつぶりだろうか。