ルービックカスタム

 おばあさんが一人で切り盛りしている商店というものに、幻想を抱いていた。こういうもんだ、こうでなくちゃ、こうあるべきだ。それが当たり前とずっと思っていて、その勝手な想像はとても傲慢な一方通行の要求になる。いったい何様のつもりなんだろう。店の数だけ人の数だけそのやり方があるもんだ。近所のわんぱく小学生に好かれる優しいおばあちゃんも、中学生が棚の影を死角にしてポケットに商品を突っ込まないか目を光らせるキツイばあさんも居ていいに決まっている。不審者に立ち向かう勇気あるおばあさんも。人それぞれだけど、それでも、年長者の持つ懐の深さを要求するのは許して欲しい。おばあさんってモンはたいがい、年下の話をしっかり聞いてくれる聞き上手なんじゃないのか。人と関わり合って生きていく現代で、しかも接客業ときたら、多少なりとも良心はあってしかるべきものだと思うよ。酔っ払ってちょっと絡んだとはいえ、何も通報することは無いだろう。おばあさんの良心のおかげで、僕は白黒のタクシーに乗せてもらえる事になった。後ろから聞こえていたおばあさんの激励はだんだんと遠くなり、やがて飾りっ気の無いシックなホテルが見えてくる。助手席のおじさん曰く僕はここに数日間宿泊することになるみたいだ。おばあさんに心の中で感謝しつつ、もう年金を納めないことを誓った。

 二日酔いの痛みで頭が重い。首から上がもたげてちぎれんばかりだった。少しでも負担を減らそうと、楽しいことを考えた。海で両足が「つる」まで友達みんなで泳ぎ遊び倒したい。携帯コンロでコーヒー用のお湯を沸かしながら、重いまぶたが下りないようずっと上を見上げ夜空の星を眺めるのも良い。誰かの家で夜通しゲーム大会だって盛り上がるに決まってる。その時はまたお酒を飲むだろうけど、二日酔いを心配してちゃお酒は楽しめない。
 俯いた下を向いた僕の頭のつむじの方から、僕の刑期がたった今告げられたようだけど、素早く思考を切り替えれるのはまだ到底無理だった。それからしばらくして、また車に乗った。バスみたいに席が多くて、ちょっと怖い雰囲気の人たちと乗り合いになった。外の景色を見ようと思ったけど、窓が無い。やることもないので、目をつぶって背中を丸くするしかなかった。


 刑務所なんて初めて入った。もちろん観光なんかじゃなく、囚人としてだ。口を横一文字に閉じてムッとしているあの制服の人は、ガイドとそのツアー客には笑顔になるんだろう。無愛想な顔と背中に芯を通したような力強い姿勢からは想像しにくい。
 簡単な身体チェックで僕のパーソナルなあれやこれやのプライバシーをもぎ取られたあと、今度は医者からいくつか問診を受けた。持病はないか。常用してる薬はないか。心に抱えてるようなことはあるか。一通り質問されたあと、おしまいに医者の先生は僕に言った。何か特記するようなことはありますか、と。
 僕は昔に見た映画のワンシーンを思い出した。主人公は今の僕と同じ問いを投げかけられて、こう答えた。「俺はどちらかというと、ゲイだ」と。複数人を一つの部屋に収容する刑務所にとって、囚人たちの間にストレスが生まれることはあまり好ましくない。心を入れ替えて自分を省みる場には邪魔でしかなく、そうじゃなくてもストレスをどうこうといった問題は、数年あるいは数十年を過ごす「家」には無い方が良い。囚人にとっても、看守にとっても。だから同性愛者はその特異性ゆえに、集団生活において和を乱すイレギュラーでありストレスの種として分類される。集団生活に不向きな者が、一人部屋である独居房を割り当てられるという情報をを、主人公はあらかじめ知っていたのだ。かくして主人公はまんまと風呂無トイレ有のワンルームの居住権を勝ち取り、脱獄へのプランへ着手する。
 「僕は、その、いわゆるゲイでして」たはは、と右手でうなじをなでながらしたすっとぼけたカミングアウトは、我ながら自然を装った大した演技だと思う。書類に目を落としていた医者が、目だけを僕に向ける。わずかに片方だけ引きつった眉が、僕のパフォーマンスの裏づけに思えて、自分の演技力にツバを飲んだ。医者は再び書類に目を落とすと、何やらペンを走らせて、おしまいに読めない奇抜なサインで締めた。
 手ごたえに思わずにやけそうになるのを押さえ、検査室をあとにする。待合室のソファー、で待たせてくれるわけも無く、冷たい廊下の壁に背中を預ける。これで一安心だ。約束されたプライーベート空間、勝ち取った自由。まあ刑務所のなかに囚われている時点で自由も何も無いが、不自由の中の自由はとても価値がある。嘘がバレたらというリスクをはかりにかけてもだ。第一に、ぶち込まれるハメになった理由が理由なもんだから、軽く人間不信にもなるというのだ。今の状況で相部屋なんぞに入れられたら、トラウマにレベルアップして社会復帰は絶望だろう。せめて一人で落ち着ける空間が、僕みたいな現代を生きる若者には必要だ。
 看守の一人がクリップボード片手にやってきて、番号を読み上げる。番号を呼ばれた囚人が、ぞろぞろと別の看守に引率されていく。思い入れや愛情の類を感じられない新しい名前はまだただの数字の羅列で、自分のものだとうまく認識できない。僕の番号が呼ばれても、その名が僕の頭に染みていくことはなく、二回呼ばれてようやく看守の視線に気づいた。
 看守についていく。途中でいくつもの房の前を通る。彫りの深い大人たちが、何も言わず僕をじっと目で追ってきた。何やらブツブツ言っている人、からかって隙間から手を伸ばす人も居たりして少し気になったけど目を合わせないようにして看守の背を追った。やがて前を先導していた看守が鉄格子と白い壁のいかにもな牢屋の前で止まる。雑多で人が詰められているといった、ここまで通ってきたコンクリートのコンテナとは違う。けして広い刑務所ではないはずだが、周りは中身のある房の数もまちまちで、静かな雰囲気だ。一人を噛み締めることのできる空間に、心の中で舌を出す。
 しかしどうしたことか、僕の見間違いであろうか。目の前のワンルームには既に住人が一人おり、さっきから僕を真正面に捉え相対している。目つきの悪い一重の切れ長の女性で、知らずにトリップした僕の脳が壁のシミを擬人化へ昇華させた妄想の産物か、それとも自殺した怨念から成仏できない自縛霊であることを信じた。見えてない振りをして目を合わせまいとするが、動揺から不自然な目の泳ぎを隠せない。そんな僕の心の内を読み取ったのか、女は僕の目の前で嫌悪感を隠す気もなく舌打ちをした。素直で良い子だ。心臓の少し下辺りがぎゅううと締まる。頭の中で舌を大げさに伸ばして、ぐえーと涎が落ちそうになる。出るとしたら胃液かな。お腹が空いているわけじゃないけど。
 房の鉄格子に掛けられた表札に、看守が僕のナンバーを足す。もう一人の看守が、ここが僕の部屋だとご親切に教えてくれた。分かっていたけど、人に言われるとより一層意識せざるを得ない。ふと、先に住んでいる先輩と目が合う。彼女は僕の視線に気づくと、大げさに鼻を鳴らして目を逸らした。
 現代社会で人の情とか思いやりとか、良心が圧倒的に足りないと、ここ数日で何度痛感したことか。あのババアも裁判長も房を割り振った刑務所の職員も、この女も。みんながキックマシーンのように、良いように僕のメンタルをへし折りに来ている。人間の傲慢さに囲まれて顔を腫らした僕はとほほと言うしかなかった。


 房は8畳ほどで思ったより広々としている。白い壁、白いフローリングの床は無菌室のような清潔感があるが、房内のあらゆる異常を捉えやすいよう、汚れの目立ちやすい白にしたとみた。脱獄用に穴なんて掘れば、粉塵やら何やらで一目瞭然だろう。
 「おい、無視すんな」
 カーペット、ベッド、机にトイレと、まさに最低限度といった家具たちからは人の生活臭が薄い。
 「おい、こっち向け」
 「何か幻聴が」
 「せい」
 彼女は僕の右中指をその小さな手で握ると、普段とは反対方向に折りたたもうとしてきた。神経の集中した指先の鋭い痛みと、女性特有の柔らかな温もりがアンバランスで、とてもこそばゆい気持ちになる。しかしすぐにそんな余裕は消え、痛みでいっぱいになった。体は正直で思うより先に謝罪の言葉が早口に口を突いて出る。僕の苦しむ様に満足したのか、彼女はようやく手を離してくれた。
 「君はこんな所にぶち込まれたというのに、まだ甘い考えを持っているようだね」
 そう言う彼女は優しく、口の端を歪めて語りかけてくるものの、まったく目が笑っちゃいない。油断も隙もない、敵意の目だ。
 「君だなんて年上ぶっちゃって。君みたいな背伸びをしたがる強がりの子も嫌いじゃないけど、迫力を出すにはもう10センチは必要かな」
 彼女が一体何者なのかは知らないが、先輩風を吹かされて主導権を握られるのも困る。それに何より、今まで良いようにされてきたなかでやっと反論できるような人間と会えたんだ、お門違いと分かっていても、たまった鬱憤や不満を漏らさずにはいられなかった。
 「せい」
 彼女がどういった人なのか、とりあえずこの短い会話の中で一つわかったのは、手が早いということだ。怒りの沸点が早すぎる代わりに、怒りを溜め込まずすぐに吐き出すために冷静に暴力で以って相槌を打つ。金的なんてされたの高校の時以来だ。くしくもこの一撃が、この部屋における上下関係を決める決定打となった。抗いようの無い鈍痛に股間をおさえながら両膝から崩れ落ちる。額をカーペットに付けて声も出ない僕に向けて、部屋の主のありがたい御言葉が降り注ぐ。
 「こうすれば身長なんて関係ないね。あと、たぶん私の方が年上よ。あんた年は」
 「23・・・」
 「やっぱり。あ、私のことは先輩でいいわよ。これから一緒なんだから、まずは上下関係しっかりしとかないとね。あんたの名前は」
 「エイジです」
 「そう、よろしくエイジ」
 顔を横にしてご満悦そうな先輩を見上げる。成果に満足したのか、両手首を腰に当てて得意気のつもりだろうけど、目つきの悪さと控えめな身長のせいでいまいち小悪党にしか見えなかった。


 ベッドは一応二つある。当たり前といえば当たり前だ。一つのベッドしかないのに二人を同じ房に入れるなんて。ましてや男と女だ、刑務所側も何も考えていないわけじゃない、そう思いたい。
 ベッドは彼女の分と僕の分、東側と西側の壁に備え付けられている。というのに、彼女は自分のベッドに腰かけ、僕は部屋の真ん中で正座で彼女と相対していた。この格差は上下関係の意識付けのためだと言うが、ぶっちゃけ僕の尊厳だとかいった心の支えは既にボコボコなのでもうどうでもいい。もう疲れた、布団を辛い現実へのバリアーとしてそのまま眠ってしまいたい。でも先輩はそれを良しとしない。
 「あんた、何して捕まったの」
 エイジです、と形だけ訂正を求める。間抜けな事の顛末を話したくないだけのささやかな時間稼ぎだけど、あいにく時間はたっぷりあって、この8畳間に逃げ場などあるわけも無い。僕と先輩の構図も相まって、親兄弟に説教されている気分にさせられる。遅かれ早かれ話すことにはなったろうし、誰かに聞いてもらうことで少し楽になるかもと思い、僕はこれまでのいきさつを話すことにした。ここで無駄に意地を張ったところで何をされるかわかったもんじゃない。
 「何をしたかと言われると、これといって悪いことはしてないような」
 「そんなわけないでしょ。おおかた性犯罪とかそういう」
 「してませんよ。そんな度胸があるように見えますか」
 「見えない」
 「即答されるとかえって腹が立ちますね」
 理不尽を物理で顔面にお見舞いしながら、先輩は何やらわからないといった顔をしている。僕は一瞬にして視界を奪った足裏が目に焼きついて涙をこらえるのに必死だ。少し間をおいてから、先輩は再び問いを投げかけてくる。
 「何か隠してるでしょ。ここらの房は普通の犯罪者が入るような場所じゃないの」
 「普通の犯罪者って。僕はただ悪酔いしたはずみでオンボロ商店のばあさんに絡んじゃって、運悪く笑って済まされなかっただけの一般市民ですよ」
 虫も殺せないような善良な青年です、と補足しておいたが、先輩の疑問はますます深くなるばかりのようだ。僕自身、こんな事で普通の犯罪者と隔離される理由が分からない。普通の犯罪者ってなんだっていうのはこの際置いておこう、ややこしいから。
 「先輩は何をして、こんな所に来ちゃったんですか」
 謎を解くためにも先輩の話が聞きたい。同じ囚人同士でそういう込み入った話を聞くのはタブーかなと思ったけど、先輩は躊躇なく問い詰めてきたし、これから同じ部屋で生きていくのだ。それにただ単純にこの人のしたことというのが気になった。20何年という歴史で何を積み重ね、何を選び、何を捨てて今日に至ったのかを。
 簡単に教えてくれるわけもないか、と思ったが、先輩は別に隠すことでもないという風にその口を開く。
 「私はね、人を殺したの。二年前に、当時付き合ってた彼女のストーカーを殺したの」
 人殺しとはまあヘビーだなあ。まあ刑務所だもんな、人を殺した人がいても不思議じゃない。けど、
「ストーカーを。はあ、でも彼女を守るためにって正義感が・・・あれ」
 彼女ですか。一応とばかりに自信なさげに聞きなおした僕に、彼女です。と端的に先輩が回答をくれる。
 「失礼を承知でお聞きしますけど、つまり先輩は女の子が好きなんですか。自分も女の子なのに」
 「そうよ、女の子大好き。同性愛者よレズビアンよ」
 堂々と胸を張って答える彼女を、率直に言って強い人だと思った。まっすぐ自分の好きなものを卑下することなくむしろ誇りにすら思っているだろう彼女を羨ましく感じた。先輩がここに入れられたのは好きな人を守るためで、結果殺人という形になっても、一途で真摯な気持ちの表れだと思うとどうにも報われないと思ってしまう。
 「でも房は男と同じで女性と相部屋でだからあまり不自由というか、悪い気はしなかったんじゃ」
 「そう、それを内心期待してたんだけどさ、レズは独居房っていう決まりらしくて。ストレスの種になるとかで」
 「僕も聞いたことありますよ。集団生活に支障をきたすとかなんとか。映画では逆手にとって独居房になりたいが為に嘘を申告をするシーンがあってですね」
 実は僕も独居房が欲しくて、映画のマネしてゲイだって検査のときに言ったんですよ。やっぱり映画の中だけでしたねと失敗を自虐して笑うが、先輩が残念そうな顔で僕を見ているのに気づいて、固まる。悟ったような、哀れむような目。どっちを取っても、その意味が落胆であることに変わりはない。何かやらかしてしまったのかと内心冷や汗がたらたらの僕に、先輩が低いトーンで声をかける。
 「その嘘がばれてたら、今頃あんたは普通に男と相部屋よね」
 「僕の演技がハイレベルだったばかりに、今こうして正座させられてます」
 「嘘がまかり通って、書類上はゲイな訳だ」
 「本当はゲイなんかじゃないですよ。」
 先輩はため息をついて変わらずに僕を見下す。見下ろされるとその瞳に侮蔑が含有されているのが伝わってくる気がする。
 「相部屋で過ごすなかで、同性愛者はそっちのケが無いひとに被害が及ぶから引き剥がされる。でも同性愛者といっても、レズとゲイならお互いに興味がないから『何も問題ない』って、簡単に考えちゃったんだでしょうね。安直な考えだわ」
 馬鹿げた発想だが、それ以外に考えられる有力な説は無い。納得はしたが腑に落ちないといった彼女は怒りを抑える気もなく容赦の無い敵意を全身からかもし出している。
 「僕はゲイじゃないですって。普通に女の子が好きです」
 「私はレズよ。男が嫌い」
 そう吐き捨てられて、僕はよろしくの一言を言うタイミングを完全に逃してしまったことに気づいた。

 あれから一言も口を聞いてもらえないまま夜になった。就寝時間になって辺りは無音になる。同じ部屋で寝ているはずの彼女の寝息すら聞こえなくて、寂しくなる。眠れぬ夜に自分の呼吸だけがあり、この無で満たされた空間の中で自分だけが異物に思えてくる。
 左耳から入り込む確かな衣擦れの音が静寂を破り、それに声が続いた。
 「昼間はあんなこと言ってごめん。でも女の子が好きなのは本当だし、男が苦手っていうのも本当。職員の単純なアタマにイラついただけで、初対面のあんたに怒りをぶつけるのは間違ってた。私はあんたの事何も知らないのに」
 「僕の方こそ、女性だからって変な見栄張っちゃってすみません。それに先輩の平穏な監獄ライフを破ったのは僕ですから」
 謝るタイミングさえ逃していたけれど、彼女の方から謝ってきたのは意外だった。突然のことだったからああなってしまっただけで、意外と理性的な人なのかもしれない。
 「でも良かった。もうちゃんと会話してくれないかと思いましたよ」
 「どう考えても私が大人気なかっただけ。一応年長者だし。男嫌いの私から見て、何となくエイジは話しやすそうだから今こうして話せるの」
 「それは僕が男として見られていないってことですかね。ショックだなあ」
 「男っていうよりは後輩みたいな感覚に近いかな。歳と情けなさが相まってさ」
 うわひでえ、という僕の苦笑が天井に、部屋に木霊して鉄格子をすり抜ける。先輩が僕を同居人として認めてくれた気がして嬉しかった。彼女が男嫌いでレズビアンでも、僕なんかの存在を見つめてくれたことに感動して、それ以上何もいらなかった。
 ベッドの上で同じ天井を見上げてお互いの顔なんて見えやしないけど、今この瞬間、先輩には笑っていて欲しいと思った。でも僕にはまだ顔を横に向ける勇気はまだない。

 先輩との共同生活、と言っても寝床を同じくしているだけで日中に会うことはあまり無い。朝の鐘にどちらともなく起きてきて、身支度を終えるまで睡眠の重要性をぼやく。夜もまたどちらともなく房に帰り、同居人の帰りを待つ。いや、待っているのは僕だけで、彼女は待っていないかもしれない。妄想も甚だしいが、それだけ彼女の存在は僕にとって無くてはならないものとなっていた。僕を一人の人間として見てくれる彼女が僕の荒んだ純情を癒す特効薬で、社会復帰へのリハビリトレーナーだった。あの房で彼女と、寝るまでの何でもない話をするのが1日の楽しみとなっている。その為に昼間恐いおじさんたちとミシンで服を縫うのも小物を溶接するのも苦じゃない。味気ない食事にパクついておじさんたちと野球だってする。話すようになった人もでき、真人間に近づいていく実感が僕を囲み祝福してくれてるようだ。しかしそんな充実の日々も長くは続かない。刑務所暮らしも慣れてきたころ、日常に馴染んできた天井を見上げながらいつものくだらない話をしていた時だ。先輩は化粧気の無い(化粧できる訳が無いが)しかし水気を含んだ唇ですっと体内に冷たい空気を入れることで前置きとした。
 「私、そろそろここを出ようと思う」
 寝耳に水とはよく言ったもので、突然のことに僕の眠気は嘘のように消えた。被っていた布団を押しのけ体を起こすも、先輩の方へ顔を向けることはできなかった。彼女がどんな顔をしているのか、もしかしたらベッドから僕の横顔を見ているのかもしれない。でも今先輩の方に頭を振れば、見たくない真実を目の当たりにしてしまう気がした。
 「思うって、出たい時に出れるものじゃあないでしょう。先輩の犯した罪は保釈金で済む話でもないし」
 少しデリカシーの無い答えだっただろうかと言ったあとではっとするが、先輩は気にせず続ける。
 「そうね、私はあと8年は刑期が残ってる。でも待てないの。だからここを出る為に脱獄する」
 私が消えたら念願の一人部屋よ、嬉しい?と彼女はおどけてみせた。自らが醸し出したシリアスを無かったことにするお茶濁しとも言える。
 僕はどういう顔をして良いかわからず布団を被り横になる。頭まで隠してなお、僕の中に渦巻く不安をも見透かされているようで顔じゅうが熱を帯びた。
 「馬鹿言ってないでもう寝ましょう」ベタな言い訳で僕は逃げた。文字通り背を向けて。冗談をスルーされた先輩が僕を好き放題なじるのを聞きながら僕は眠りに落ちた。
 翌朝起きると房に彼女の姿は無かった。
 コンクリートの城に僕は一人になった。


 先輩が僕の前から消えて1年あまりが経った。あの後すぐに部屋中を隅から隅まで探したけど脱獄の痕跡は見つけられず、どこにもスプーンで掘った不恰好な穴なんてものは発見できなかった。あまりに突然消えたものだから、本当に彼女は存在したのかなんて考えたりもしたが、ベッドのシーツは確かに使い込まれていたし、その説は僕の心を立て直してくれたあの時間を否定する事になる。うまくやったのだとして、深く考えないようにした。もう一度会えたらと思わないでもないがそれは到底無理な話だ。でも、ばったり彼女と再会した時に笑われないよう、ちゃんとした人間になるために今日もおじさん達と一緒にガタつくミシン相手に格闘するし溶接の光をじっと追いもする。
 今や僕は模範囚といっていいほどに心を入れ替えた気持ちの良い好青年だ。心の曇りなんて無い、はずだったが。
 刑務所内で行われる野球大会の日。僕はここ連日刑務作業に根を詰めすぎて房で一人休んでいた。野次と木製バットのくぐもった打球音が遠くから運ばれてくる。グラウンドから僕の房まで、扉と廊下と階段と曲がり角を上へ下へ右へ左へ反射した音は、本物の何分の一の純度で出来ているだろうか。壁にぶつかる度に臨場感の端を折る音の波は、僕の感情の何も震わせるには至らない。
 彼女が去ってからだんだんと、1人でぼうっとする時間が増えたように思う。無気力という訳ではないが、ここではないどこかへ行きたいという漠然とした欲求が心の底に横たわっていて、どうにも邪魔なのだ。そして気づけば彼女のことを考えている。彼女は僕という存在をまっすぐに見つめてくれたのに、僕は見上げるだけで先輩と同じ位置に立とうとはしなかった。顔を背け目を逸らした。僕は何に怯えていたのだろう。彼女と過ごした一ヶ月で何が成長したっていうんだ。何もできちゃいない、ただおだてられて浮かれてただけだ。先輩が何を思ってるかなんて知ろうとせずに与えられる好意に胡座を掻いていた。あの夜のことを何度も頭の中で繰り返し、シミュレートする。僕があの時何と答えれば彼女は出て行かなかっただろう。強い人だ、僕の言葉で何とかできたかもなんてのは部相応な思い上がりだろう。それでもなんとかできたはずだと思わずには居られない。たとえ彼女が僕に何の興味を持っていなかったとしても。
 いつの間にか日は傾きかけ、遠く歓声が聞こえる。遠い。世界で僕だけが悩み、苦しめられているんじゃないかという錯覚に陥りそうになり、髪を五指にかけ力いっぱいに掻き毟る。そんな見当違いの被害妄想を浮かべたことに自己嫌悪し、突き刺さる指の力が増す。
 一体何を考えているんだ。こんなことしてたって何もならないのに。
 抜けた髪の毛が床に落ち、白い空間に色彩として迎えられる。さながらノートの上にペンを走らせたように見える。一本、また一本と増えていくノートのイタズラ書きを見つめながら、未練たらしい情けない自分を殺す消しゴムの存在を求めた。
 夕焼けの紅い日の光に当てられた床の白が細かい色の変貌を遂げるのに気付かぬまま、背と壁の間にじっとりした不快感を覚える。けして長くない髪の貴重なキューティクルを、理不尽な両手の暴力から解放してやる。だらんと下げた両腕は自然体のままに。
 突然、新たな色が僕の視界に繰り出してきた。黒。とても大きい黒だ。その黒を認めて初めて、夕焼けでベージュになりかけた床を知覚することがてきた。僕は差し込んだ黒の方を見やる。逆光で顔ははっきり見えなかったが、僕にはそれが誰か一瞬で理解できた。
「久しぶり」エイジ、と僕の名を呼ぶシルエットは、座った状態からでも僕より低身長だと見てとれる。
 「少し背、伸びましたか」
 彼女は「髪型を変えただけよ」とだけ答える。足裏が飛んでこないのを、下に見られていないと考えるのは自意識過剰だろうか。もう一度チャンスをもらったと考えてしまうのも。

 「戻って来ちゃった」
 先輩は少し体を左右に揺らしながら照れくさそうに言った。突然飛び出していった手前、いろいろ思うところがあって気恥ずかしいのだろう。僕だって同じだ。あなたに言いたいことがたくさんある。なぜあんなに急に出て行ってしまったのか、どうやって脱出したのか、今までどこに行っていたのか、何故また刑務所に戻って来たのか。
 あの夜、僕はどうすれば良かったのか。
 「どうして」
 僕は言いあぐねて続く言葉が出なかった。何から話して良いやら分からず、頭がパンク寸前になる。どうして。どうして。そればっかり反芻して僕の思考回路はショートした自動案内じみて一瞬でポンコツに成り下がる。そんな僕を見かねて彼女は苦笑する。顔にかかる髪を手で梳きながら僕の隣に座ろうとする彼女に、僕は全身に尋常じゃない速さで血が巡り始めるのを感じた。神経が過敏になる。ウブ毛さえもが、より彼女を求めて逆立つ有様だ。
 隣に座るものだからずっと先輩の顔を見てるわけにもいかず、先輩と同じ壁を見つめる。壁には彼女の使っていたベッド---といってもとっくに整理されて長く使われていないが---が吊られている。全てが把握され管理された部屋で唯一彼女がここにいた痕跡。
  「ここへ戻って来たのはただ警察に見つかったからよ。一応脱獄者ってことで指名手配されてたの。エイジは知る由もないでしょうけど」
 「ええ、今初めて知りました。指名手配されるなんて、有名人になっちゃいましたね」
 「まったくよ。おかげで愛しの彼女にも逃げられてもう散々。何の為に脱獄したんだか」
 「別れたんですか」
 「うん。彼女を巻き込みたくなかったからしょうがないとはいえショックだったわ。」
 先輩の好きなものに対する実直さはよく知っているつもりだ。だけど愛する人にしては少し反応がドライであることに違和感を覚えた。
 「別れ際彼女は私に言ったの。『どうか許して。脱獄までしたあなたには残酷だろうけど、あなたを失った私は愛を求めて、もうあなたの知ってる私じゃなくなった。あなたは好きだけど、今は恋愛対象としては見れない』って」
 「もうあなたの知ってる私じゃない、か。それって普通に男が好きになったとかですか。レズビアン卒業」
 だとしたら大変な心境の変化だ。
 「これが私の愛の形だ、なんて言って最初は訳が分からなかった。でも話を聞いてあれこれ見せられるうちにさ、何だか変な気持ちになっちゃって…」
 「どうなったんですか」
 「女の子も好きだけど、今は男も好き、かな」
 「先輩、それって」隣に座る先輩へ体が90度急旋回する。先輩もまた、僕の顔を見つめていた。まさか「BLって言って男同士の恋愛なんだけど、これがまた滾るのよ」まさかだった。予想、いや期待していた『そのまさか』では無かったが。この数秒で急激に年をとった気がして、余りに脱力した顔を見せる訳にもいかず俯いた。すぐ上で、新しい世界を開いた先輩が独り舞台でつらつらと身振り手振りを交えながらその魅力を語っている。
 だが彼女の恋愛対象が変わっただけで、僕と彼女を取り巻く環境はむしろ最初にリセットされたと言っていい。僕にできること。僕がやりたいこと。
 僅かに残った冷静な思考を働かせ、僕はこの禅問答に挑む。

 約1年ぶりに先輩との共同生活が始まった。ひと月程だった先輩との生活は僕が一人で過ごした時間よりずっと短かかったけれど、この部屋がやっと平常運転に戻ったと感じた。この部屋のあるべき姿。一人で暮らすにはこの部屋は大きすぎて、ぽっかりと空いたスペースにすっぽりと、やっと収まりの良い形に完成したのだ。または穴が空いていたのは僕の方かもしれない。
 今日も朝の鐘にどちらともなく起きてきて、身支度を終えるまで睡眠の重要性をぼやく。何でもないようなことだけど、僕はその何でもないような時間を、1秒を幾つにも細分化し引き延ばし噛みしめる。またいつか僕の前から消えてしまうかもしれない恐怖が口を吐き嗚咽の漏れるのを力尽くで押さえつけ、彼女の冗談に付き合う。
 昼の休憩時間は、先輩の姿を探して刑務所内を歩き回るのが恒例になった。図書室、娯楽室、グラウンド、購買、休憩所。偶然を装って彼女の傍を通る。せっかくだからとベンチに並んで座り、壁の上部に取り付けられた液晶テレビを2人で見つめながら、下世話で身勝手なくだらない話をする。ふと彼女の目を追うとガタイの良い二人組の男囚を見つけて、慌てて先輩の目を引こうとトンチンカンな苦しいギャグをよくした。先輩の冷ややかな瞳が僕の羞恥心やら何やらを貫いたりもしたけれど、最後には決まって笑いかけてくれた。もはや僕を辱めたいが為にわざとしている時さえあったけど、僕は彼女のご機嫌とりに必死だった。
 
「先輩はまたここを出ていくんですか」
 ある夜とうとう僕は怖くなって彼女にそう聞いてしまった。聞いてしまったが最後、先輩の答えを僕は果たしてまともに受け入れる自信が無い。けれど彼女と話すたびにその事が頭をチラついて、笑顔のひとつもぎこちなくなる。
 「何その質問」
 シーツと寝衣の摩擦の音が聞こえる。夜の密室に男女が二人という事を意識してしまう。何度夜を越えても慣れない静かな昂ぶりを覚える。平静を装いながら体を部屋の中央の方に向けると、同じく体を横にした先輩と目があった。消灯された室内であっても僅かに差し込む月光が彼女の唇と瞳を照らし、確かにここにいることを教えてくれる。彼女の口の端が少し吊り上がる。僕をからかう時のそれだ。僕は唾を飲み彼女の答えを待つ。
 「行って欲しくないんだ、エイジは」
 そういう風に思ってくれてるんだ、と思わせぶりなあざとさを僕に振りまく。ドキリとしたが、「茶化さないでください」と僕が言うとごめんごめん、と肩を震わせた。
 「でも嬉しいよ」
 そう言って先輩ははにかんだ。その歪んだ瞳に吸い込まれ、息をするのも忘れてしまう。そこで僕はようやく気付いた。僕はもうとっくに先輩にイカレてしまっていたことに。社会復帰の為に先輩という存在と触れ合っていたのに、いつしか先輩無しでは生きてさえいない社会不適合者になってしまった。
 でもそれでも構わない。僕が生きていることを実感できない人生なんて、他人の人生みたいなものだ。僕はこの人の為に生きようと思った。
 「もう寝ましょう」
 自分で言ってて恥ずかしくなったのか、おやすみ、と短く告げて背中を向けられてしまう。その背中に、先輩が出て行く前の僕の姿を重ねてしまう。質問からうまく逃げられたことに今さらはっとしたが、もうどうでもいい。今日は良い日だ、いつもより。それだけ。それだけだ。
 僕はおやすみなさいと先輩の背中に声をかけると仰向けになる。その夜はしばらく眠れなかった。それは先輩も同じようだった。永遠に夜が続くような緩い時の流れが心地良くて、夜明けが来なければいいのにとさえ思った。僕らは音の消えた真空のような夜にどちらともなく眠り、またその寝息を聞きながら眠りに就いた。
 数日後、先輩は再び僕の前から姿を消した。今度は僕に一言さえ無く、それこそ幻のように。また脱出の痕跡は見当たらなかったが、彼女のベッドから彼女がここにいた事を証明するものが見つかった。
 それは丈夫なステンレス製の先割れスプーンで、食堂で見かけるものとは違うものだ。メッセージは無く、ただシーツに包まれた鉄が横たわるだけだ。僕は使われた感じの無い新品の贈り物を握り一人、部屋を見渡す。僕は真っ白なキャンパスを汚すことにした。


 僕の体のあちこちは青年から大人のそれへと成長し。
 季節はお決まりの4パターンを順ぐりに繰り返し。
 食堂のメニューはもはや母の手料理より食べた気さえして。
 スプーンの先の丸部分は鉛筆のようにとうに『ちびて』しまった。
 人の気配を感じて振り返ると、先輩がそこに居た。
 何か垢抜けたね、と彼女は言う。
 「先輩はますます綺麗になりました」
 僕は彼女の前に右手を差し出す。手のひらは繰り返し潰れたマメと粉塵でざらざらして汚れていた。
 「ようやく貴女にちゃんと向き合える気がします」
 手を取ってくれますか、と僕は先輩に問うた。彼女は口を結び目を細めると、柔らかくて細い指を僕の手に添えた。僕の背から眩い朝日が差す。壁にこしらえられた、人ひとりがやっと通れるほどの穴からの光が先輩の指を限りなく白に近い色に輝かせる。
 彼女が消えてしまうより先に、僕は彼女の手を握った。




 囚人が脱走しました。何、一体どうやって。独居房に穴が発見されました。現在調査中ですが、鉄の粉末が辺りに散見されることから、映画さながらにスプーンか何かで密かに掘り進めていたようです。調査を急がせろ。それと指名手配の準備もだ。監視システムの見直しをせねばならんな。クソ、ここは平成元年に建って以来、脱走者を1人も出していない堅固さがウリだったというのに。一体どうなってる、脱走者のデータを寄越せ。はい、名前は日比谷エイジ。罪状はストーカー行為及び殺人です。逮捕時は錯乱状態にあったようで、後に精神疾患と診断されました。その理由から独居房に移しましたが、看守からの情報だと、いつも1人であるにも関わらず絶えず誰かと話している風であったと。近頃は静かだったという報告でしたが、まさか脱走とは…。周辺住民に注意を促して不審者に近づかないようにしろ。急げ、野放しにしたらマズイぞ。
  頭のネジがトンでやがるな、殺人鬼め。