DNA

 枕の傍の小窓から光が差した。瞼ごしに眼球を撫でる白の色が、瞼の裏の流れる血潮を透き通らせる。陽の光を受けた顔面が、視神経、皮膚、毛穴、鼻の内側のうぶ毛を通して朝の訪れを感じ取り、体全体に報せていく。シャッターの下ろされた脳が徐々に覚醒し、電波信号のスコップがコークスをたっぷり持ち上げて、灼熱をも飲み込む蒸気機関と黒光りする石炭の山を忙しく往復する。でも初めに目を覚ましてノビをしたのは僕ではなく、近所の野良猫でもない。世界で一番の早起きは、体を起こすと両手の指を絡ませながらうんと頭の上へ伸ばした。二の腕の筋組織は突っ張り肩甲骨が背中に浮く。ピンと跳ねた後ろ髪を掻きながらもらした気持ちの良い欠伸が、酸素を目一杯に取り込み脳と身体じゅうの細胞が活力を見いだす。やがて吐き出した覚醒の息吹が、僕を吹き飛ばした。僕だけじゃない。部屋全体が、それぞれ独自の重力を持ったように左右上下に落ちていく。ベッドが一瞬で木くずになる音すら僕の耳には届かず、抗いようのない力に皮膚を引きさかれ、空高く打ち上げられた。お隣の新婚夫婦や僕のアパートも同じく、近所のショッピングモールも動物園のパンダもまた空に落ちていくのが見える。僕の体が回転するごとに、見上げる地上は遠のいて、頼りない重力を頼りに天地を何とか見分けようとした。勢いはとどまるところを知らず、大気の厚い層さえも突き抜けて、気づけば天に落ちていった僕たちにはもう宇宙の方が足の届く地上で、酸素のある故郷の星は僕の手では届かない天空だ。神のような視点で見た地球は、かの有名な宇宙船の乗組員が表したように確かに青かったけれど、あんなに大きな石つぶてはめり込んではいなかった。あっさりと砕け割れていく母なる星に思わず笑ってしまいそうになる。あんなにもろいところで、よくもまあ人類は好き放題してたもんだ。虚空の海を漂いながらさっきの表現が誤りであったとぼんやり考える。地球はけして早起きじゃない。むしろ世界一の寝坊助だろう。目覚ましのベルじゃ起ききれない彼は、その身に隕石がぶち当たることでようやく目を覚ますほどなのだから。
ぐるぐる回る視界にも慣れてきたので改めて周りに目をやる。あちこちに割れたガラスとコンクリートが漂い、爆心地である地球を中心にちょっとした小惑星群が形成されていて、土星の輪っかのように見える。岩盤クラスから下校中の石蹴りサイズまで、小惑星デビューを果たした大小の石ころの間から、人の姿もけっこう見える。と言ってももちろん酸素の無い宇宙に人間の居場所なんてどこにも無い。こんなに宇宙は広いのにとショボくれて、身も心もシワシワにしてどいつもこいつも黒の涙を瞳に溜めている。即身仏じみたフォルムがこうもたくさんあると有り難みの欠片もない。酸素は毒素の一つと言うし、限界まで身を清めた結果ということにしておこう。信仰の自由は別として。人間はまだ良いが、動物は悲惨だ。割れた風船のように中身を暗闇に晒す哺乳類たち。特にこんなパンダをお茶の間にお届けしようものなら国際問題だぞ。自主規制。
 そんな中でふと一人の女の子と目が合った。そこらに転がる死人の目とは違う。有無を言わせぬ自信に満ちた、赤い目。彼女はその目と同じ色のポストを蹴って僕の方へ飛んできた。慌てて両手を伸ばして、やってきた彼女の右手と腰に手を回して受けとめる。彼女の持ってきた慣性で二人して弧を描きながら、お互い見つめ合う。腰から手を離し右手だけ、五指を強く絡めて手のひらをくっつけた。指は氷のようにひんやりと冷たかった。
 「あなた、人間じゃないわね」
 「そういう君こそ」
 幕の下りた仄暗いカーテンの向こう側、誰に見せるためのものではない舞台の上で踊る役者がふたり。
 「長く生きてきたけど、まさか地球が滅亡した後も生きるとは思わなかったわ」
 「人の理を外れたものがこの世から追放される、なんて聖職者の決めゼリフは聞こえが良いけど、他の人間までほっぽり出しちゃ世話ないね」
 言えてる、と2人して音量を気にせず声を上げて笑う。こんな状況で出る冗談は、不老不死特有の余裕と感性の麻痺から出てくる類いのものだ。常人には言えない不老不死ならではのジョーク。イモータリィジョークとでも名付けようか。流行りそうもないしやめておこう。
 聞けば彼女は東京の出身だという。東京のどこに不老不死の秘術が眠ってるのかと一瞬考えたけど、東京だって昔は山だったんだ。変な一族も信奉もあって不思議じゃない。
 僕の出生も彼女に伝える。生まれは九州のさらに南の方で、これまたどこにでもあるようなど田舎。僕は興味本位で昔から伝わる風習やその背景を追ううちに門外不出の秘術を見つけた。そして不老不死になった。それだけ。
 どこも似たようなものだねと、また2人で笑う。指を絡めたまま、回る球体の遊具で遊ぶ子供のように飽きもせず無限に描かれる螺旋の軌跡。どうやら僕たちの不老不死としての特性にあまり違いはないようだ。酸素が無くても生きていけるし、手足を失い心臓をもがれようともすぐに再生する。痛覚が無ければ食事の必要もなく、おまけにこれといった弱点も無いときてる。しいて違いをあげるとすれば彼女の方が身体能力が僕よりずっと高いくらいだが、それを発揮できるところが無いんじゃどうしようもないと彼女は肩をすくめた。
 僕は生まれて初めて会う同胞に、静かな感動を覚えていた。友人はとうにこの世を去って長い間ずっと独りで生きていたし、これからも独りだと思っていた。でも違った。同じ不老不死がいるなんて、世界が壊れたことで世界の広さを知ることになろうとは。
 奇跡的な出会いだと思わないかい、と思わず口説いてると思われかねない言葉を口にしてしまったが、彼女はシティー派の慣れた身のこなしで田舎者のがっつきをなだめる。
 「そうかしら。あなたが知らないだけで、私たちみたいな不死者はけっこういるの。もちろん世界中でね」
 彼女はその卓越した視力でもって、距離にして1光年はゆうに離れている同胞の姿を捉えた。もちろん僕には見えない。人並みの身体能力しか持ち合わせていない僕には、自分以外の生の鼓動を彼女からしか知覚できなくなっていた。彼女は空いた左の指で宙を指差す。僕の受け止めきれる光の屈折を超えた、世界の外側のことを彼女は教えてくれる。水星の方に浮かんでるのはアメリカの人で、酸素が無いと呼吸できないから苦しんでる。火星の方に飛んでいくあの人は、体を丸めて冬眠の準備をしてる。木星目指して加速する彼は人の形さえしちゃいない。不幸にも太陽の引力に巻き込まれたあの人はたぶん吸血鬼だろう、背中から赤や白のグラデーションで発光している、とのこと。
 でも僕にはそのどれもこの目で見ることは叶わない。彼女が教えてくれなければ一生知ることは無かっただろう。彼女を通じて世界を知る。力なく流される僕にとってこの女の子が世界そのものだ。僕は初めて僕が生きていた世界に触れる事ができて、言いようのない安堵を覚えた。
 しかし彼女の親切な講義に耳を傾けていると、いつの間にか辺りを漂よっていたアスファルトも夫婦の成れの果ても動物園のパンダも遠い未来か過去のように離れていた。かろうじて視認できる米粒サイズは、それが一体何なのかという情報さえ汲み取らせてはくれず、すぐに存在自体も僕の視界から消えることだろう。長く親しんできたものでもそうじゃないでも、知ってる既存のモノが周りから完全になくなるのは少し心細かった。
 やがて各地に散らばっていたらしい仲間達がとうとう彼女の目ですら追えなくなった。世界の外側で彼らはどこに飛ばされて、その先でどう生きていくのだろうか。僕らがそれを知る術はもう無い。
 僕たちの行き着く先はどこだろう。もしかしたらどこにたどり着く事もなく、この宇宙を漂い続ける永遠の旅人となるのだろうか。意思なき漂流なんてそこらのデブリと変わりはしない。
 僕と彼女の右手と右手で架けられた橋は、体温の往来はあれど汗が滲むことはない。もう地球がどっちにあったのかさえ分からなくなった。
 「もし地球みたいな環境の星に落ちたら僕たちはそこでアダムとイブみたいな、人間のオリジナル認定をされちゃうのかな」
 「実はあの2人も私たちみたいに宇宙からやってきたのかもね。地球がそうやってできた可能性だって無くはないし」
 なんて名前で後世に残してほしいか今の内に考えようか、なんて気楽に他愛ない話をする。こんなネタ、SFか陰謀論のどちらに分類するべきか迷ってしまう。個人的には神様に近い気がしないでもない。