仄暗いお湯の底から

 この仕事を始めてからというもの、頭の中が詰まっているようだった。これは別に、元々すっからかんの僕の脳みそが有意義で効率的に機能しはじめた、という日々充実してることへのへたくそな比喩なんかじゃない。まるで脳みその皺の間にしこりができているようで、なけなしの細胞が押しやられて低く呻いている。酸素とか糖分とかそういったもろもろが足りていないのか、集中力も衰えてぼうっとする時間が増えた。脳細胞がじわじわとしこりに侵食されていき、思考が圧死していく。衰退の二文字がちらついて、言いようのない寂しさがこみあげてくる時がままあった。脳内に茫洋と広がるなんでもないスペースがゆっくりとのしかかり、音も無く僕を軋ませた。仕事を始めて四ヶ月と経っていなかったが、自分には向いていないと、限界を感じていた。
 仕事自体はけして身体が資本というような重労働ではない。かといって炎天下にスーツで挨拶回りにひた走るようなストレス多きサラリーなマンでもなく、もっぱら空調の効いたオフィスビルで清掃をこなすだけの何でもないものだった。
 電話の呼び出し音とヤニ臭さをかき混ぜるような混沌とした日中に用具の積んだワゴンを転がす訳にもいかないので、仕事が始まるのは人の消えた夜からとなる。夜に出勤して朝遅くに退勤する。休みが少ないわけじゃないし、給料だって悪くない。不満な点といえばその勤務時間くらいなものだったが、その唯一の不満が僕を深く蝕んでいった。
 昼夜逆転の生活に最初から適応できるはずも無く、しばらくは寝不足に悩まされた。身体は常に重く吐き気がすることも多く、脂っぽくなった顔には久しぶりにニキビができた。毎日が徹夜明けのようなものだから頭が満足に働かず、物を深く考えることも少なくなり、以前よりずっと怒りっぽくなってしまった。そして少しだけ、卑屈さも増したように思う。当たり前の時間に朝日を迎えないだけで、他の人との隔たりを強く感じて、僕だけがまともな生活を送れていないように感じるのだ。
 まだ過ごしやすい朝日の下、馴染みの薄い帰路につく。アスファルトの纏うほんのりとした熱が、空調で冷えた体を足元から包みこんだ。気づけば太陽を覆っていた雲が流れ、押さえつけられていた本来のぎらりとした眩い光が正面から迫ってきていた。目に見える自然の厳しさにため息を抑える気も起きない。
  その光の下、登校中だろうか、ランドセルを背負った小学生たちが照りつける熱線を物ともせずに歩いている。まるで太陽を背中に従えているようで、向かうところ敵なしといった眩しさを放っていた。
  すれ違うとき、金属を擦り合わせたような高い笑い声が頭蓋にこだますると同時に、僕自身も思わず目の眩むような熱線の下にさらされた。一瞬だけ、息を呑む。つむじに注がれる粘ついた太陽の視線に、何故だか僕は存在自体を疑われている気がして、無意識に大股になった。やましいことなんて無いのに、どうしてか日なたが歩きづらくて仕方がない。寝起きのときの淀んだ不快感が奥歯から漂った。


 いつもより早く仕事が終わった日、僕は人気のない県道を通って帰った。コンビニのLED光であたりは薄明るく、新聞配達の原付の排気音がどこからか聞こえてくる。
  風呂に入りたかった。借りているアパートは風呂がなくシャワーのみだったので、体の汚れは落とせても一息つくことはできない。湯船に浸かって、温かい気持ちのまままどろんで眠り落ちる。暮らしのなかに安らぎを求めた僕なりの至福の形だ。風呂上がりに着るのは寝衣ではなく軽く汗ばんだTシャツで、夜明け前の冷気に体温を奪われることになるが、問題じゃなかった。必死だったのだ。ほんの少しの時間だけ、仕事に壊された日々を抜け出したかった。
   銭湯の場所は昨日、上司に聞いていた。住所を聞くと、僕のアパートの近くだとわかり驚いた。近所の地理はだいたい把握しきったと思い込んでいたが、銭湯があるなんてまったく気づかなかった。聞いたとおりに郵便局を曲がると、赤茶色の背の高い建物に出た。コンビニとはちがう蛍光灯の明かりが「ゆ」の一文字を照らしている。けして小さくない駐車場はがらんとしていたが、話に聞いていたとおり24時間営業のようで入り口には照明が点いている。照明の横には誘蛾灯があり、寄ってきた蛾を落とす電撃音だけが夜を支配していた。僕は立ち止まることなくゆっくりと色の濃いガラスの自動ドアをくぐり、中へ入った。

 熱めの湯が張られた風呂で、頭を壁側の縁に乗せてゆったりと浸かった。肩から下が溶けんばかりに脱力して、指の先の神経が活発になった血流に押されてしびれるのを感じる。僕以外に客は居ないようで、僕はすっかりくつろいで四肢を湯に晒した。僕の心臓の鼓動だけが、水面を微かに揺らした。
   はあ、という声が大きな息と共に漏れる。今日何度目かのそれはため息に似ているが、風呂ではまったく意味が異なる。ほぼ無意識に、閉じた目の端が緩やかなカーブを描く。通常のため息が幸福を逃がすというなら、風呂場では逆に幸福を確かめるものとなる。全身をリラックスしてゆっくりと空気を絞り出す一連の動作は、拳法の演武に通ずるものがあるような気がするのだ。邪念を取り払い、心を傾ける。その瞬間に、細かい全てを忘れる。やっぱり似ている。仕事に壊された生活が、今はどこか他人事のように感じていた。
  このまま溶けていたい、いつまでも漂うクラゲのようになりたいと本気で考えていたその時、すりガラスの引き戸が音もなく開いた。
  心の中で舌打ちをした。夢見心地でくつろいでいたところに、突然現実が足を踏み入れてきたのだ。面白いわけがない。重くなっていた瞼を上げ、僕にとっての招かれざる客を一瞥する。しかし仄暗い視界の中でそれを認めた途端、すうっと血流が止まってしまったように怒りと四肢の感覚が湯気に消えた。そこには梅干しのように赤い肌をした鬼が、立っていた。対の角を生やした鬼らしい鬼が、立っていたのだ。



 鬼とは。鬼とは乱暴で、力が強い。パンツはトラ柄。鬼ヶ島に住んでる。いや雲の上か。いや日本各地で鬼が出てくる言い伝えがある。ということは地上なのかな、自信ないな。ああでも地獄にもいるし、どうなんだろう。確かなことは、鬼は人を脅かす存在で、悪い存在で。人を、喰らう――。
 「・・・っ」
 突然やってきた絶体絶命の危機に、蕩けきった頭が追いつかない。鬼に見つかったらきっと殺される。頭の中で瞬時に膨大な憶測や情報が走るなかで、それだけは確実だと思った。半開きになった口から言葉が出なかったのは不幸中の幸いだったかもしれない。もし僕が鬼だったら、入っていきなり悲鳴を上げられたら良い気持ちはしないから。
 どうやって無事ににこの場を離れられるかの脱出プランを練っている間に、何食わぬ顔の鬼はずんずんと一直線にこちらの風呂場に向かってくる。どうやら鬼は先に身体を洗わない主義らしく、洗い場には目もくれない。
 ちくしょう、身体を洗っている隙に背中を通り過ぎようと思ったのに!ああそういえば父も先に湯船に浸かってしまう人だった。もう逃げられないと悟ったのか、そんな場違いな感慨が湧いて出た。
 そうして、あふれて流れた湯が爪のとがった足先を濡らし、黄色の角で湯気を切って鬼と僕は相対することとなった。先客の正体が人間であると認めた鬼は、目を丸くしていた。僕も僕で、黒目と白目の逆転した恐ろしい瞳に射すくめられて目をそらすこともできず見つめ返した。
 完全に萎縮して身じろぎひとつできない僕は相手の反応を待つしかなく、かといって鬼も僕を見つめるだけで何もしてこない。長く長く引き伸ばされた緊張の中で、意匠も面白みもない湯口から吐き出されるお湯だけが正確に時を刻んでいる。首から肩にかけての筋肉に変に力んで鈍く痛んだ。
 呆然と向かい合う異種ふたり、端を発したのは角アリの方だった。
 「うわ人間じゃん」
 うわ鬼じゃん。予想外にあっけらかんとした物言いにつられてそう返しそうになったが、なんとか堪える。鬼と人では単純に力負けする。一対一のこの状況で主導権を握っているのは間違いなく鬼の方だ。うかつな言動で鬼の怒りを買うのは避けたい。
 口をつぐんで身を固くしていると、鬼はこちらの心境を察したのか「ああ」と何やら得心したようで
 「そうビビるなよ、取って食やしねえ」
 「えっあっそうなの」
 緊張のあまり裏返り、なんとも間抜けな返事になった。本当かよ。僕の動揺をよそに鬼は、茶化すように手を顔の前で振ってへらへらしている。邪魔するぜ、とそのままざぶざぶ湯船に腰を落ち着けてしまった。
 鬼は肩まで一気に浸かり歯の隙間から、ふう、とか、はあ、といった銭湯の常套句を吐き出した。無造作に縁に投げたタオルは、色あせていない黄色と黒のだんだら模様だった。
 「大丈夫、なんですか。僕は」
 もう一度念を押して、僕は勇気を出して身の安全を問いかけた。さっきまで血色の良かった唇は青くなって震えていたが、最後まで詰まることは無かった。
 「そう言ったろ」と鬼は両手でばしゃばしゃと顔を洗いながら言った。人間である僕を気にも留めていないようだった。「俺は風呂に入りに来ただけだからよ」鬼の言葉に僕はようやく少しだけ安堵した。深呼吸をしようとするも吸うのと吐くのとがまるでちぐはぐで、はたして今まで呼吸できていたのか怪しかった。
 「鬼を見るのは初めてかい」
 彼は湯気の行く末を見守るように天を仰いで言った。人間の骨なんてたやすく噛み砕きそうな大きな歯が見え隠れして恐ろしかったが、彼なりの気遣いを感じた気がした。ええまあ、という生返事しかできない自分が途端に恥ずかしくなった。
 「よく来るんですか」
 もちろん銭湯に、という意味だったが、心の中で人里にと付け足した。鬼は少し得意気に口の端を吊り上げた。
 「週2で通ってるよ」どうやら彼は銭湯が好きなようだ。しかし少なくとも週2で近所を鬼がうろついているとは、今までよく出くわさなかったものだ。
 「じゃあお住まいはこの辺なんですね」
 興味本位で聞いてみると鬼は目を細めて、僕も知っている一階にコインランドリーのあるマンションを答えた。不動産屋で見た覚えのある名で、たしか僕のアパートよりずっと家賃が高かったはずだ。
 「安心しな、ここらで俺以外の鬼なんて居やしねえから。俺は物好きだから里を飛び出して一人で暮らしてるのさ。山のてっぺんで一生なんて御免だからな」
  上京してきた若者のような発想に思わず苦笑いした。梅色の筋肉質な顔からは年齢を測ることはできないが、案外に鬼としては若いのかもしれない。
 「里にはもう五十年は帰ってないな」
 「五十年もですか」五十年。それがヒト換算で何年になるのか、そもそも鬼の寿命ってどれくらいなのか僕には知る由も無かったが、鬼の目は遠い過去を見つめているようだった。
 「どういうところだったんですか」
 「退屈なところさ。山だから娯楽と呼べるようなモンは無かったし、千年以上も前から人里には下りるなって掟があってな。毎日変わらない人生で、生きながら腐っていく感じだった。だから出て行った」
 そっけない風を装っているつもりなのだろうが、何故だか僕には強がっているように見えた。
 「でも暮らすには困らなかったわけでしょう。これまで保障されてきた人生や生活を捨てて身一つで飛び出すのは不安じゃなかったんですか」
 喋っている途中でしまった、と思った。出すぎた質問だ。しかしほぼ無意識に口を突いて出たものだった。鬼はじろりと流し目で値踏みするように僕を見つめた。
 「そりゃあ少しは怖かったさ。下りたところでうまくやっていける保障なんてどこにもねえ。捕まって殺されるかもしれねえ。けど、死ぬまで何も起こらない日常に生きて、それで俺の人生に意味があるのかって考えたら飛び出す他なかったんだ。意思を持つ『何者か』になりたかったんだ」
 言葉を選びながらのゆっくりした喋り方だったが、だんだんと語気の強くなっていくさまに僕はそれ以上何も言わず、揺れる水面に視線を落とした。先ほどまでの怯えや恐怖はどこか遠くへ行っていた。
 彼は自分の身を守ってくれるものすら捨てて自分の望むものを求めたのだ。自分の欲求にひたすら真摯なのだ。自分の心に正直に生きていく。やりたいことをやるために動いている。
 誰しも自分の好きなことで生きるという理想を描きはする、だがそれを実現するために動きだせる人はずっと少ないだろう。動き出すことさえできない人はごまんといる。さらに現実というふるいに掛けられ、まわりが徐々に生活と折り合いをつけるなかでついに夢を叶えるに至った者、彼はその一人なのだ。
 「そういう生き方ができるって、憧れちゃいますね。こう、自分の足で立ってるっていうか。自分で道を切り開いてる」
 言葉に嘘は無かった。スタートラインにすら立てない持たざるものとして、畏敬の念すら持ち始めていた。だが彼はひどく寂しそうな顔で困ったように苦笑いした。粗暴で獰猛なはずの鬼がこんな顔をするのかと思わせる顔だった。

 その日以来、僕は銭湯に足しげく通った。風呂は良い。シャワーでは味わうことのできない落ち着きがある。熱い湯に浸かって目を閉じている時だけ、僕は全身にまとわりつくねばねばした不快感から開放される。全身を包み込む温もりに全てを忘れ、口端から恍惚が溢れる時にだけ、僕は真っ当な人間に生まれる。そんな気がした。
 風呂上りにきまって飲むフルーツ牛乳はカフェインたっぷりの栄養ドリンクなんかよりずっと僕を応援してくれる。上がった心拍数が静かに高揚をもたらし、肩をぐるぐる回して肩甲骨をほぐすだけで僕は嬉しくなった。煮えたぎるような外気温と紫外線の暴力は強さを増していったけど、足取りは以前よりずっと軽かった。
 通えるものなら毎日通いたいくらいだったけれど、さすがに一ヶ月分の入浴料+雑費は馬鹿にならない。残念ながら僕はブルジョワジーには程遠い貧乏な一会社員なので、銭湯へは週に3回が限界だった(毎日風呂に入れる程度の経済力をブルジョワジーとは言わないだろうけど)。
 あの鬼とはやはり外で出くわすことは無かったが、夜明け前の客足の絶えた時間に銭湯に行くといつもその姿があった。あんなに恐ろしげだった角も肌の色も今では見つけやすい個性の一つでしかなく、僕から話しかけていく程になった。気の良い異形の彼は、僕の良き友人となった。彼の方も風呂仲間が増えたと言って喜んだ。
 僕たちは愉悦に身を預けながら、他愛ない話をした。故郷の話だとか。今年はドラゴンズがアツいだとか。こしあん派かつぶあん派だとか。経験人数で勝負したりだとか。昨日見た荒唐無稽な夢の話だとか。
 「仕事とはいえ昼夜逆転ってのはどうにもいけねえなあ。早死にするぜアンタ」
 「脅かさないでくださいよ。休日出勤でナーバスなんだ僕は」
 「鬼と普通にくっちゃべってるお前のどこがナーバスなんだよ」
 だけど、初めて会ったときのような話はあれからしなかった。というより彼がしてくれなかった。何故自分の思うままに行動することができるのか。その踏み出す勇気はどこから来るのか。恐怖を克服する術は。僕には無いものを彼はどうやって手に入れたのか。
 僕は絶えず知りたがったが、彼は話すことを避けた。きまって彼はまたあのひどく寂しそうな顔で、力なく苦笑うのだ。それ以上何も言えなくなるから、僕もその話題を出すのはやめた。
 今さら人間が鬼がという問題を持ち出すわけではないけど、まるで僕が屈強なはずの彼を恫喝しているように映るからだ。それは洗い場の鏡の一つひとつに。蛇口のソケットに。意匠も面白みもない湯口から吐き出される大量の湯に。それらが溜まって大きく揺らめく浴槽の湯に。彼の白と黒が逆転した、恐ろしげな瞳に。そして僕の瞳に映る。僕は訳もわからず悲しくなったが、それでも知りたかった。知らなければと思ったのだ。
 自分勝手な僕とは違い、彼は見た目に似合わず聞き上手だった。だから僕はつい仕事の愚痴を言ってしまったり、人に言ったことのない悩みをうっかり喋ってしまうことがあった。彼にしてみれば良い迷惑だったろうが、いつも最後まで黙って僕の話を聞いてくれていた。
 一通り言い終えたあとに虚しさがこみ上げてくるが、そんな僕に彼は多くを語らなかった。けっして手を貸さない、しかし突き放しもしない不思議な距離感。それはお前が自分で解決しなきゃ駄目なんだよ。そう言われた気がした。
 背を押された僕はしわしわになった両の指を濡れた髪に絡ませる。そのまま後ろに手櫛で梳くように流し、後頭部のややごつごつした崖を落ちた先、うなじの後ろで手を組んだ。立てた両膝に突き出した両肘をくっつけて体育座りのようにしてうずくまると、座高の高い僕はやや前かがみになる。何処を見やるわけでもなく、ぐっと近くなった水面が視界いっぱいに広がっている。
 僕は仄暗いお湯の底に沈みながら、喧嘩別れしてそれっきりのぼくと気まずい再会をする。


 段々になった木製の椅子は少し湿り気を帯びていた。猫背の僕が腰を下ろすと、へその周りで折りたたまれた腹肉はあっという間に汗でぬめった。彼は恐ろしく熱された石に柄杓で水をかけている。一瞬で音を立てて蒸発する水と冷めることのない石。思わず呻くような簡易地獄を手がける姿はさすが鬼ということで画になっていた。
 場所を変えようと言い出したのは彼だった。相変わらず浴場には僕と彼以外に客は居なかったが、断る理由もないので承諾した。といっても銭湯にあるものなんてもう水風呂かサウナぐらいしか無いので、必然的にサウナに入ることになった。広いサウナだったがやはり中には誰も居らず、僕たちは一番下の段に並んで座った。
 なあ、と彼はよそよそしく切り出した。
 「初めて会った日、アンタは言ったよな。自分の足で立ってる、自分で道を切り開いてるって」
 「・・・はい、確かに言いました」
 「あの時は悪かったな。気の利いた返事の一つも返せねえで」
 ばつの悪そうな顔の彼に、僕はおや、と思った。彼からその話を振ってくるのは初めてだった。意味をもって、意思をもって生きる術をこの先駆者に教わる。あんなに望んでいた展開なのに、何故か期待よりもずっと後ろめたい気持ちがあった。
 「次はアンタの番だ。アンタの話を聞かせてくれよ」
 鬼はしゅーしゅーと音を立てる焼き石をじっと見つめている。あの日の続きをしようと言うのだ。僕は壁の上面に掛けられたスピードメーター形の丸い温度計を見上げた。年代物なのか、表面が黄色く変色していて温度は読み取れなかった。

 「僕は持たざる人間です」
 「やけに卑下するんだな」
 「まだ良く言った方ですよ。僕は才能はもちろん、何かやってやろうっていう意思すら何も持てなかった」
 「持てなかったのか。持ってなかったんじゃなくて」
 「持ちたい気持ちはあったんです。でも持ち方が分からなかった。それは生きていく意味だとか、報酬だとかになると思うんですよね。自分が生きていく原動力、自信、武器、みたいな。これで将来生きていくとまではいかなくても、自分にはこれがあるって胸を張れるモノ。あなたの、過酷な道であっても一人で生きていくと決めた意思の強さがそうだ」
 「だから憧れるなんて言ってたのか」
 「そうです。でもたぶん僕は馬鹿マジメなんでしょうね、一度コレが好きだと思ったらそれで生きていくほか無いって考えちゃうんです。そうなると次は本当にこれで良いのか、お前はこれでやっていけるのかって膨らんでいって、最後はきまって、夢敗れて路頭に迷う自分が現れる。僕は傷つくことを恐れて一歩も動けない臆病者です。でも僕はそういう生き方に憧れてしまった。変わりたい。けど傷つくのは怖い。自分で何一つ決められない僕は成り行きに身を任せてふらふらしていました。かといって無為に流れる時間から目をそらすこともできないでいる」
 「辛い生き方だな。憧れを捨てることだけができないのか。でもそれはまぎれもないお前が望んだことだ」
 「今さら後戻りはできません。憧れを捨ててしまったら、それこそ僕は生きながらに腐り果てることでしょう」
 「そうか・・・」
 「あなたはいわば成功者だ。自分の確固とした意思で歩き、生きている。――お願いします。どんなことでも良い。僕に生き方を、歩き方を、教えてくれませんか」
 「悪いがそいつは無理だね」
 「どうして、なぜいつもそうやって避けるんです!他人のアドバイスは僕の為にならないというんですか!」
 「教えたくても教えてやれねえんだよ。俺はアンタが思うような立派なモンじゃない」
 ぎり、と奥歯を噛み締めるいやな音がした。岩をも砕くはずの鬼の手が、ぶるぶると震えていた。
 「俺はいわば失敗者だ。うまくいったなんて一度も思ったことはない。俺はちっとも、生きちゃいない」
 あまりにも小さい背中だった。

 「あんたは言っていたじゃないか、意思を持つ『何者か』になりたかったって!里を飛び出した勇気は、信念は!嘘だったのか!」
 違う、今の彼に言うべきセリフはそうじゃない。弾劾される謂われは彼にはない、僕に彼を攻める資格もない。なのに、気づけば彼を糾弾していた。裏切り者、と。
 「嘘なわけがない。けど俺の武器じゃあとても太刀打ちできなかったんだ。覚悟していたはずだった。けれど世間は俺の存在を許しちゃくれない。息をすることさえ俺には許されなかった。居場所の無い俺に何をどうしろと言うんだ。生きる意味が無い、むしろ生きてはならないと思い知らされた」
 「生きる意味は自分で探すんだろう、居場所を求めてきたんだろう!それが、どうして・・・」
 ひたすらに悔しかった。信じていた人が偽者だったという事実よりも、僕はいつの間にか彼に未来のかくありたいという自分の理想を重ねてしまっていて、それが破れたと分かったことが悔しかった。
 「アンタを焚きつけるような思わせぶりなことを言っちまって、本当にすまなかった。俺はただ、久しぶりに誰かと会話できたことがうれしくて。そんなつもりは無かったんだ」
 そう言って俯いた鬼の顔は今にも泣き崩れてしまいそうで、僕は行き場の無い感情の渦に呑まれて胸が張り裂けそうになった。
 一緒だ。彼と僕は、何も変わらない。アドバイスする資格なんてどちらにも無く、また糾弾する資格もどちらにもない。誰も悪くない。
 もう彼の姿を直視することはできなかった。自虐で歪み果てた顔は鏡の中で足りている。自分を保つことだけで精一杯なんだ。もう一人抱え込む器量があったら、こんなところで悩んでなどいない。
 「ごめん」その一言が僕の限界だった。
 「アンタは・・・」鬼は握った拳を腿の上に乗せて、搾り出すように僕に告げる。その恐ろしげな瞳はおそらく、まだ焼けた石を見つめているだろう。「アンタはまだ、スタートラインにすら立っちゃいない。行くも帰るも、アンタの自由だ。俺はもう駄目だけど、アンタにはまだ、希望がある」声は震えていた。泣いているのかもしれない。僕に確かめる術はない。
 「ありがとう。あなたに会えて、本当に良かったと思ってます。」言葉に嘘はなかった。
 「俺は今日限りで、この街を離れるよ。アンタとはもう、会うことはないだろう。本当に、すまなかった・・・」声は震えていた。泣いているのだろう。振り返らずとも感じ取れる。僕は既に涙していたから、おそらくきっと、彼も涙を流してくれているにちがいない。
 今までありがとう。僕は木製のドアに向かって友人に別れを告げた。


 外は眩暈のするような暑さで、アスファルトは裸足で歩けば火傷しそうなほどに熱かった。雲ひとつ無い大空から、砂漠を思わせる灼熱が降り注ぐ。ようやく馴染んできた帰路を歩きながら僕は繰り返しつぶやいた。
 生きてやる、生きてやる。生きてやる!
 住宅街のど真ん中で、木陰で話し込む主婦たちの目があったが、気にならなかった。僕は天を割るように右の拳を突き上げ、太陽に向かって中指を立てた。
 なぜそんなことをしたのか理由を聞かれても困るが、そこには僕の意思があったように思う。
 流れっぱなしだった涙は痕になっていたがどうでも良かった。あの良き友人の為に、あるいは死んでいったぼくの為に、涸れるまで流し続けた。
 ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!
 僕は呪いのように繰り返し叫んだ。