坂の上には学校がある

目覚まし時計をセットするときに日付が目に入った。8月31日。一般的に夏休み最後の1日とされる日だ。おれが通っていた高校では夏休みは8月の25日くらいまでで、夏休み最後の日という情緒は多少薄れてしまっているけど、それでもこの日は夏休み最終日だという意識が根付いている。

 

おれはいつも宿題を後回しにして、最終日に慌てるやつだった。今でもそれは変わっておらず、周囲に迷惑をかけてしまっている。

この夏は、夏らしいことをしただろうかと振り返ってみる。今年は海にも行ったし東京にも遊びに行った。学生からするともう一イベント欲しいところだろうが、社会人としてはそれなりに夏を謳歌しているんじゃないか。


せっかく夏休み最後の日だから学生らしいことをしようと、日付が変わる前に日記を書き始めたはいいものの書くことが思いつかない。急かされる気持ちを擬似的に味わおうというのにまったく落ち着いてしまって緊張感がない。日頃からさくせんを「きらくにいこうぜ」にしているせいで鬼気迫るものがまるでない。

どうでもいいけど「いのちをだいじに」と「人に優しく」はニュアンスがとても似ている気がする。ブルーハーツドラクエが好きだったんだな。いや時代的に逆か。

 


ドラクエで思い出したけど、おれは小さいころドラクエの「テリーのワンダーランド」に熱中していた。ゲームボーイカラーのやつだ。攻略本片手にデスピサロを作った思い出がある。

 

ある日父の親友の家に家族で遊びに行ったとき、ゲームっ子だったおれはもちろんテリーのワンダーランドを持って行った。家は山裾にあり、いろは坂も顔負けの急勾配&連続カーブで母がすっかりやられていた。川原で泳いだりバーベキューをして遊び、そのときに、テリーのワンダーランドを忘れて帰ってしまった。

 

以降その家に行くことはなく、今さら取り返そうなんて気もないのだけど、もう一度あの家を訪れなければいけないとずっと考えていた。

父の親友の、そのまた父親の名前がおれとまったく一緒という、それだけの理由なんだけど、おれはどうしても行かなければならないような気がしていた。シンパシーってやつか、思い出の美化か。名前自体は初対面の人でも読めるほどの少し珍しい程度でも、読みも字も一緒の人は今の今までそのおじいさん以外に出会ったことがなく、おじいさんの方も嬉しがって可愛がってくれた。小さいころだったのでおじいさんの顔はまったく思い出せない。もういよいよという歳なので、健康なうちに会っておきたい。

 

うまく説明できないけど、同じ名前を持つ先人とこれからも生きるおれとで、話をしなければならない気がしている。継承式と呼ぶべきものかもしれない。でも、その人生のすべてを、おれが聞いてあげなければという強迫が確かに、ある。声も顔も出てこないけど、おじいさんが他界したときには泣いてしまう確信がある。おじいさんから宿題を受けとらなければ、永遠に終わらせることなどできないんだ。夏休み最後の日に慌てて、まわりに迷惑をかけてしまう俺だけどこれだけは、ちゃんと終わらせて9月を迎えなければいけない。大丈夫。読書感想文だけは早かったんだ。