玄米4合と味噌とチップスター信州わさび味

初めて詩集を買った。本屋で文庫棚の横を通り過ぎようとしたとき、谷川俊太郎の自選集が目に入ったのでつい買ってしまった。作者のエッセイを1冊だけ読んだことがあり、いつか詩も読んでみたいと思っていたが、忘れかけていたころに見つけたので衝動買いに近いかたちとなった。

 

普通に暮らしていると、文章を読む機会はあっても、詩を読む機会はとんとない。国語の教科書で読んだのが最後という人も多いだろう。何が言いたいのか当時はイマイチ分からなかったけど、不思議と文章は憶えているものだ。『かまきりりゅうじ』はそらで言える自信がある。

詩特有の独特な言い回しや短さが、新幹線から見える突飛な看板のように「今の何だ?」という感じで頭に残りやすいのだろう。頭の中でひとり、何十回も何百回も暗唱することで、その詩の意味が自分だけのものに昇華していく。詩人は広告屋に向いているかもしれない。

 

作者と読者で意味は食い違ったり、読者の間でも意見がぶつかったりする。それぞれ読んだときの心境や環境が違うからだ。

どの詩が頭に残ったかも人それぞれでまったく違う。目に留まった詩は何度も読みこまれたり、栞の定位置になって本に癖がつく。反対にぴんとこない詩は何の感情もなく流される。言葉ひとつとってなんとか意味を汲み取ろうとしても、ぴんとこない詩にはなぜかどうしても深い意味があるようには思えない。単純に好き嫌いの問題だ。

それでもいいのだとする詩の世界はあんがい、気を張る必要がなく親しみやすい。でもたまに豪速球で心をえぐってくるものもあるので油断すると吐きそうになる。深夜のどうかしてる時間には特に。

 

買った自選集では、「二十億光年の孤独」「つまりきみは」「ゆうぐれ」がとてもいい世界観で気にいった。まだ全部読めていないしばら読みだけど、急いで読むものでもないのでしばらくは枕元に置いておくことにする。「くらしは質素で、たまに詩を読んで過ごした。」なんか宮沢賢治の作品に出てきそうじゃないだろうか。そんな気分にもなれるので、詩集をひとつくらい持っていてもいいな、と思った。