ごまたまごの中毒性とあの日見たプロレス

貯めに貯めた書類を提出し、上司の嫌そうな顔から逃げるようにして東京旅行に行ってきた。罪悪感などごまたまごの前では無力なのだ。ごまたまご美味しい。完全食。2日ほどごまたまごしか食ってなかった。

加えて思春期特有の行動力を兼ね備えた今のおれは無敵といっていい。来月は北海道にでも行ってやろうかと考えているほどには無敵だ。
コミックマーケットという同人誌即売会に、友達と3人で参加してきた。いわゆるオタクの祭典なのだけど、正直おれはアニメとかあんまり見ないので、周りの人たちがキャラクターがデカデカとプリントされたTシャツを着ているのに少し距離をとってしまう。でも友達2人がそういう服を着て一緒に会場に行くには頼もしく感じる。

午前5時のSAは意外にも人が多い。アメリカ体型のおやじが白くて丸い足の短な犬を連れて歩き、髪を後ろにまとめた人が歯を磨き、子供が目を擦りながらトイレに入っていく。とてもいい。朝の風景がぜんぶ詰まっている感じがする。

プラスチック容器の柿の種を貪っていたらカップ型の乾燥剤が出てきて、昆虫ゼリーのようだと思った。思わぬところで夏らしさが、わさびの風味とともに鼻をかすめた。そういえばざるそばもそうめんもまだ食べていない気がする。実家に帰れば食べられるだろうか。
小学生の頃、カブトムシを飼っていたことがある。向かいの家の友達とその友達の親の車で夕方の森へ採りにいったカブトムシだ。オスメス合わせて6匹ほどカブトムシを捕まえてご満悦だったが、家に帰る頃には虫かごの中はがっちゃがっちゃとハッスルしており、異形たちの互いが互いを貪るようなグロテスクでアクロバティックな交尾にドン引きしてしまった。プロレス技でいうとローリングクレイドルのような状態だった。人同士だとなんだか楽しそうに見えるが、カブトムシだとわきわきわさわさしてて怖くなってくる。ギィギィ言ってるし。そのとき、強くてかっこいいカブトムシも、カメムシやカミキリムシと同じ「虫」なんだと感じて急激に萎えてしまった。もともと虫は苦手な方だったおれの最後の牙城が崩れ落ちた瞬間である。それでも友達の手前、逃がすに逃がせず、健気に昆虫ゼリーを毎日与えて縁側の下で飼っていた。
ある日、昆虫ゼリーが減っていないことに気づいた。腐葉土のうえにカブトムシの姿はなく、夜行性だから土に潜っているのだとはじめは思っていた。けれど一週間ほど経っても昆虫ゼリーが齧られた形跡はなく、水分が完全に失くなって縮んだゼリーが、甘ったるい嫌な臭いをさせているだけだった。
土を掘り起こしてカブトムシを確認したかったが、あの「虫」らしさを前面に出した姿を見てしまった後ではとうてい触れる気にはなれず、ゼリーだけ交換してそのまま夏が過ぎた。
秋になって恐る恐る虫かごをひっくり返してみると、カブトムシも幼虫も何も居なかった。どうやら蓋を閉め忘れたときに逃げてしまっていたらしい。残念半分、死骸を触らないですむという安堵半分で、昆虫ゼリーだけが大量に余った。それ以降カブトムシを飼うのをやめたのだった。


オチがないのでコミケで買った同人誌の話。
道草の雑草を片っ端からタバコにして吸ってみるというなんかすごい本を買ったのだけど、作者の方が軽トラに簡易の家を積んでいてぶらぶらしながら小説で生計を立てているという漫画のキャラみたいな人ですごくいいなあと思った。青井硝子さんという方なので気になった人はまあ調べてみてください

 

ゆきゆきて港区

せっかくコミケに行ったので新幹線のなかでコミケのことを書こうと思ったけれど、疲れと眠気で頭が回らないし何が言いたいのか自分でもよくわからないので、ホテル周辺を散歩した時の無作為なメモの内容を貼ることにする。tokyoは不思議な街ですね。住みたくないけど毎日歩きたい感じです。

以下メモ

 


赤羽橋の下の暗い川

ディスり都歌
パーキングの看板のペンギン
幼児と初老の女性と微笑み手を振る通行人
顔を伏せたまま地下鉄から登ってくる男
マッサージ店の電光広告
ビアホールのミスト
道端のコンビニ袋とホットスナックの串
いきなりステーキ
車道に収まらないバス
空っぽのインド料理屋
東京タワーの展望料高すぎ
個室ビデオと和民
アーケードのないくねった商店街
サッカーのユニフォームを着たキャッチ
走る女子高生
シャッターの半分閉まった理容店
名前のない宅配バイ
テレビは消したけど、部屋の電気も消したほうが良かったな
片方破けた靴底を引きずる人
白い肌と黒い肌の観光客
小さな小型犬と黒いワンピースの主人
黒いハイエース
タウンページのない公衆電話
しかめつらの杖突き老婆と手を貸さずしかし歩幅を合わせる主人
立ち飲み屋の若い女店員
掲示板の訃報通知
灰皿のないコンビニ
甚平を着た欧米人
百地蔵と赤い風車
高いガソリンと白いスカイライン
ビルの谷間の稲荷神社
パトカーと視線
二の腕にも持て余すスマホ
子供の声
寺と空き缶
繋がれた自転車
小さな蚊
ストライプの彼とストライプの彼女
寺とダンスミュージック
足音
赤い毛糸頭巾
手を繋ぐ女の子と女の子
モンスターとスマホを持って誰かを待つ男の子
地下の公衆便所
以前までは〜の英訳を調べて

 

 

 

涙の焼肉

高校野球が盛り上がっているらしい。野球に興味がなくともそのくらいは伝わってくる。地元の県の優勝校なんて今調べて初めて知った。県の野球連盟に58校が加盟しているので、優勝校以外の57校が涙を呑んだことになる。最低でも9人×57校の513名が夏の過ごし方が急に分からなくなってぼんやりしてしまうんだろう。野球に興味がなくとも傷心の高校球児513名を想像するとさすがにかわいそうに思えてくる。県からなにかしてあげられないものか。焼肉に連れて行くとかさ。たぶん喜ぶよ。

書くことが無いのでもう少し高校野球のことを考えていた。スタンドで応援するブラスバンド部、特に管楽器の人はあそこで演奏することについてどう思っているのだろう。薄い金属でできているから、長時間あの炎天下に晒されていたら簡単に歪んでしまうのではないか。そうなるとやっぱり音にも影響が出て、「もう野球最悪〜!」と帰りのバスで仲間と愚痴ってるに違いない。愛着があるだろうに。がんばれブラスバンド部。テレビで映ってたかもしれないと帰宅後録画した試合を確認するミーハーなブラスバンド部もがんばれ。シンバルの上で焼肉しているブラスバンド部は野球部にも分けてあげよう。
あれだけ嫌っていた高校野球だったけど、こんなに肯定的になることができた。おそらくおれが当事者じゃなくなったからだろう。思い出を美化するつもりはないけど、なんだか都合のいい話だと思う。野球が好きだったらと思う場面はいくつもあったけど、別に後悔はしてない。いつかテレビの甲子園に夢中になる日が来るのだろうか。楽しみにしないで待っておこう。

防波堤の案山子

Q.日記と手記を履き違えていませんか

A.そんな事より公園にカイリュー出たってよ!


海に行った。炎天下の砂浜は尋常じゃないくらい暑く、足の裏がくっつきそうになる。めちゃ痛い。なのでずっと平泳ぎしていた。おかけで背中が日に焼けてヒリヒリする。
海であまり泳いだことがなかったので、プールとは違う浮力に楽しくなる。平泳ぎに飽きたら仰向けになってしばらく漂流して、飽きたらまた平泳ぎに戻る。船が難破して海に投げ出された人が島に漂着するシーンをよく見るけど、そう難しいことじゃないのだと気付く。
顔だけ出して漂っていると、耳が水に浸かっているので海と自分の中からの音しか聞こえなくなる。深呼吸の音が大きい。このまま潮の流れに乗ってどこか遠くへ行きたくなる。けれどブイがあるのでそれ以上漂っていることはできない。
防波堤の上から向こう側へ飛び込めば邪魔をするものはない。近づいてみるとフナムシがうじゃうじゃ居たので諦めた。実物のフナムシを初めて見た。裸眼のぼんやりとした輪郭でも伝わってくる不快感におれは逃げ帰った。
日陰で休みながら、防波堤の上でちっとも動かないあの釣り人たちは、マネキンなのではないかと考えたりした。

思春期の椅子

社会人になって2度目の夏になる。ぎこちなさもとうに抜け、去年の今頃はといった感慨も特にない。より充実した生活を送るべく、これまでにいくつもの習慣が生まれては消えていった。揉み合い圧し合い擦り合せて残ったのは、使いどころのない瓶詰めのチリソース。トルティーヤ完全食主義を掲げていた時の遺物だ。若く生力に溢れていたおれは生き急ぐあまりに間違ったことをたくさんした。低いテーブルとやけに高い座椅子もそのひとつだ。使いづらいわ馬鹿か。


厳選され生き残った習慣のひとつに、夜勤明けの休みに映画を観に行くというものがある。うちの会社は班ごとに勤務時間がローテーションされるシステムなので20日ごとに1度映画館に足を運ぶことになる。そして映画館はいつも近所の大きめなショッピングモールではなく、国道を片道2時間かけて隣の県のTOHOシネマズでレイトショーを見る。自堕落で気分屋なおれだけど、不思議にもこの習慣は続いている。
映画館へ向かう車中、きまってブルーハーツのCDをかける。かけながら、きまって大声で歌う。喉が枯れて声が出なくなるまで歌う。対向車の視線なんて無視して、音程を二の次にして大声で歌う。いつも8曲目あたりで声が出なくなるから、9曲目からはもう鼻歌混じりになる。一周したらまた別のブルーハーツのCDをかける。たまにサカナクションもかける。暑さで柔らかくなったボトルガムを噛んだりコーヒーを飲んで、休んだらまた歌う。満足したらまたボトルガムを噛む。ボトルガムは1度に2粒口に入れる。


帰りにはAMの深夜ラジオを聴く。たまに菊田研究所をかける。帰りは車通りも少ないので、行きの半分の時間で帰ることができる。
帰りながらいろんなことを考える。さっき見た映画の内容が、その時だけはどこか遠くに行ってしまう。そしていつも、何も考えがまとまらないまま部屋に着いて、泥のように眠る。そんな習慣が、半年くらい続いている。

外の人

おれの見る夢にはデパートがよく出てくる気がする。今日見た夢にも出てきた。小さい頃祖母によくデパートに連れて行ってもらったものだ。たぶんそれに起因している。祖母も出てきたし。

夢から醒めたあとはいつも、夢の中で会った人に会いたくなる。何だか急に申し訳ないような気持ちになって、過去のことを後悔したりとか、お互い生きてるうちに言える事を言っておきたくなったり、ぐるぐるしてきて、何も集中できなくなる。
そんなだから、故人が夢に出てきたらおれはきっと泣いてしまう。言いたいこと、謝りたいことはもう、永遠に届かないのだ。たとえそのひとの墓前で罪を告白したとしてもそれは都合の良い自己満足だとしか思えてならない。本人からの言葉でなければ絶対に認めないだろう。我ながら面倒くさくてしょうがない。
だから故人に会うことは怖い反面、せっかく夢なんだから堂々と出てきて何か喋ってほしい。

不思議なことに、おれの見る夢には故人が一切出てこない。顔を忘れているわけでは絶対にないのに、1人も出てこない。もしかするとおれは相当淡白な死生観を持っているのかもしれない。話したいことがたくさんあるのに。墓や仏壇の前でしゃべるのじゃどうにもダメなんだ。返事が返ってこないし、おれの中からも何もでてこない。都合よく故人の返事を想像できないししたくない。「今ごろ天国でどうしてるかな」葬式の仕出し弁当を食べながら交わされるそんな会話にいつまでも入れずにいる。結局その人が何を思っていたのかなんて、その人にしか分からない。美談や教訓として語り継ぐかクズだったと吐き捨てるかは残った人の言ったもん勝ちに過ぎず、もし魂が四十九日留まり続けるというのなら、あーだこーだ言う親類の頭の上で、意地悪な顔でほくそ笑むくらいでいてほしい。誰もが心に秘密を抱えたまま、勝ち逃げしている。とてもずるいと思う。

夢の内容を書こうとおもっていたんだけどなあ。もうあまり思い出せないや。たしか霊峰の頂上から自転車で転がりながら落ちる。あとデパートの中で雪合戦。たしかそんな感じだった。

10分間の菩薩

日記を書くといった翌日に寝落ちしてさっそく書き損ねた。しょうがないじゃない。夜勤だもの
夜勤は疲れる。どれくらい疲れるかというと、今これを書いている時ももう夜という字がゲシュタルト崩壊を起こしているほどだ。そのまま遊びに行こうものなら、行き先は慎重に選ばなければいけない。徹夜した時のどうかしてるテンションとよく似ている。顔や髪はべたべた、あらぬ方向へ思考が跳ね回り理性的に振る舞ってもどこか欠けている。おれも例に漏れず、どうかしてる頭でホットドッグを4個も食べちゃったりする。みんなそうだと思う。急にポテトサラダを1キロくらい作ったりしてると思う。パチンコとかやってなくて良かった。
辛い・眠い・長いのトリプル役満にも関わらず点数は安いときたもんだ。得られるリターンは少ないくせに差し出すリスクは高い。定期的にやってくる夜勤に、そんなに稼ぎたいのかおまえらはと、ロボットモノの主人公みたいな言葉が思わず口を突いて出る。稼ぎたいからおれみたいなのも雇っている事実には都合よく蓋をする。やたら社会に反抗するのは10代とチェ・ゲバラの特権。関係ないけどゲバ棒の語源ってゲバラじゃないんだね。いつも持ってるイメージだったから。キューバ行きてえ。


散々言ったあとで何だけど、個人的に好きなところもある。もちろん仕事は好きじゃない。道端の花を愛でる的なそんな楽しみだ。

頭の後ろから浴びせられる叱責の連打と、終わりのない作業に追われる一夜を乗り越えて迎える朝日が好きだ。なんともいえない気持ちになる。工場の高い窓から差し込む朝日は、演出なんじゃないかと笑えてくるくらい白く、けして侵すことができない神聖さがある。実際眩しすぎて光の先が見えなくなる。外で核爆発でも起きてないと不自然なくらいな眩しさ。本当に漫画みたいなことあるんだなってつい見てしまう。細い金網にびっしり積もった粉塵が反射して氷砂糖みたいに輝く。それらを眺めながら歩いていると、仕事から解放された喜びと疲れからかとても優しい気持ちになる。その間だけおれはたぶん解脱してる。ただし工場から帰るときまってミーティングがあるので悟りが閉じる。魂が涅槃を求めている。

余談として、夜に業務を終えて歩く風景も好きだったりする。遠くで揺れる高炉の大きな蒼い焱。過剰すぎるスポットライトの集合体。風で倒れないか心配になるジブクレーンの、暗い白と赤。どこか現実味がなくて、その方向へ歩いても景色は変わらずけして辿りつけないんだろうなという気持ちになる。でも一緒に歩く先輩たちは誰もそれを見ようとはしない。おれはそれが寂しかったりする