ウルトラB

comitia125で頒布した同人誌「ウルトラB」の一編です

 

 

  男は聖書が読めなかった。字が読めないのでなく、根気の問題だった。それに、読む理由もなかった。男は教会に住んでいるというだけであって、聖職者ではなかったからだ。廃墟に流れ着いただけの、ただの何者でもなかった。

 人類が神さまに見放されて200年が経っても奇特な連中というのはたまにいるもので、ぽつぽつと来客があった。彼らは男を神父だと信じて疑わなかった。

 迷惑に感じつつも邪険に扱うわけにはいかなかった。それには、信者の良心による寄付なくしては生きられないという、つましい事情があった。ここではない遠くの地で聞きかじった神父の真似事がはたして正しいのか男には分からなかった。そしてそれは信者たちにさえも。

 ひどい砂嵐だった。窓から見える刑務所跡の頑丈そうな柱が、赤茶けた砂によってゆっくりと、しかし確かに削られてゆくのを男はじっと眺めていた。外に出ればひとたまりもないだろう。奇特な連中はそういう日にこそやってくるのだった。

 おおかた神の試練だとか、勝手な受け止め方をしてはしゃいでいるのだ。信仰の力があれば無茶がきくと思っている彼らのことを男は軽蔑していたが、心の奥底では羨ましくも感じていた。

 そして戸が叩かれた。

 嵐の晩、教会を訪れたのはロボット、それも奇特なロボットだった。最低限着装すべき防塵マントも日よけ笠もなく、左腕の肘から先が欠けている。ランタンの灯の下で、長く高熱と砂塵に晒されてきたであろう装甲が鈍色に光った。それは野生の獣の艶だった。

 懺悔をしたいとロボットは言った。壊れかけているのか、音声が掠れている。

 身一つであるロボットからは謝礼、もとい寄付など望めそうもなかったが、男はこれを了承した。

ロボットは両腕を挙げて歓喜を表現した。左の欠けた肘関節からは黒ずんだ機械油の塊がこぼれ、体重移動により床板がぎいぎい悲鳴を上げる。

糞だ。一切の飛沫もなく床に重く立った油の塊に、男は口の中で呟いた。どういうわけか男はしばらくの間その「糞」から目を離さずにはいられなかったが、「ロボットの」「糞だ」という以上に情報は増えなかった。

男はこれまでの経験から、懺悔に来る者は大まかに二種類に分けられると考えていた。自分が何をすべきか、知っているはずの贖罪のカタチに気付かないふりをしている者。これが大半だ。もう一方は、忘れえぬ過ちの瞬間を、自分の力だけでは振り切れなくなった者。ロボットは後者だった。

ただ、どちらも神父(だと思いこまれている一般人)である男がやるべき事は変わらない。彼らからどのような話を聞かされても、男は一言、万能の定型句を述べるだけで仕事は終わるのだ。男にとって二つの違いは、面白い身の上話が聴けるかどうかに過ぎない。きびしい世にあってそれは唯一の娯楽だった。

しかしすぐに問題に直面した。

 ロボットは機械ゆえに、記録されたデーターからおよそ無限とも思えるほどディティールを掘り下げることが可能だった。また、ロボットはどの情報が重要で必要であるかの取捨選択を使用者に委ねるため、ロボット自身はそういった事に向いていない。つまりは話し下手だった。男にとってこれは大変な苦痛だった。

 ロボットはその時目についたものを片端から喋っているようだった。やれ机にクリップがいくつ散らばっていたとか、やれその日のニュースや天気予報だとか、やれ道ゆくエア・カーの登録商標やカタログデータとか、やれ常連客が通算何杯目のヌードルを注文したとか、そのほかいろいろ。

 とにかくどうでもいいことばかりを、ロボットは際限なく喋り続けるのだった。今か今かと待ち受けていた男の緊張はすぐにだらけきって、抑揚のない掠れ声の何もかもが、両耳のカーブをするすると滑っていった。

 いつ本題に入るのか、はたまた、まるで気にも留めていないような調子で通り過ぎてしまって、もう次の話が始まっているのではなかろうか。

目の前のポンコツがだんだんと煩わしくなり、男は苛立ちを覚えるようになった。さらに時が経ち、ロボットは喋り続け、苛立ちは不安に変わった。さらに時が経ち、ロボットはなおも喋り続け、男は眠りこけた。二時間後に男が覚醒したとき、ロボットは手術室で赤ん坊を取り上げていた。その女の子はO型のRhマイナス、体重3109gの栗毛で、瞳の色は…。

溺れそうになり、男はたまらず口を挟んだ。怒鳴りつけてやりたい気持ちを必死に抑え、きわめて冷静に努めた。あと何時間かかるかと聞くと、ロボットはようやく喋るのをやめ、廃教会は水を打ったように静まり返った。いつしか嵐は止んでいた。

静寂のなかで男は煙草に火を点けた。裏庭から摘んだ香草を巻いたものだった。計算中ですとだけ答えが返ってきて、ロボットはまたしばらく沈黙した。

翌日、男はロボットにいくつか提案をした。

まず第一に内容を要約すること。どの場面でどういう瞬間に立ち会い何をして誰を傷つけたのか、また何を過失だと認識したのかだけ、フィルタリング項目を指定した。条件付けしてやればロボットも話しやすいだろう。もちろん「相手に傷を与えたか」には物理と心理においてどちらの要素も含まれる。

もう一つ、音域にもう少し幅を持たせて没入しやすくしてはどうか、という提案については、神父への精神的負荷はなるべく軽減したいという意見により却下された。ロボットの優しさは男の身体にこたえた。

あとは休憩時間について、男は一時間につき10分の休憩を要求した。懺悔中の喫煙にはロボットが渋い態度を示したものの最終的に男が勝利をもぎとった。そういうところだぞ、と男は思った。

かくして最適化された懺悔が、改めて最初から語られることになった。続きからではないのかと言いそうになって、やめた。こうなったら一度好きにやらせてみよう。男は喫煙の交渉でさっそく疲労していた。ロボットが一息に言った。

西暦2089年5月3日午前2時43分、手術室にて左アームの動力伝達ベルトがガイドレールを逸脱し制御不能となって出産直後の赤子をそのまま圧死させてしまった。その女の子はO型のRhマイナス、体重3109gの栗毛で、瞳の色は…。

男は記念すべきその日一本目の香草たばこに火を点けた。そして台座に肘をついたまま、万能の定型句を述べた。

 

 

 3日後、男はまた一つロボットに提案をした。

 それは、ロボットの罪を点数に換算するというものだった。ロボットに表情があれば、それも眉根や口角の引きつりやまつ毛の震えといった繊細な機微をも表現できる性能だったなら、その全機能を最大限に発揮した不可思議のマスクをつくっただろう。可視化された達成感を男は欲していた。

 そうしてその日は5963ポイントから始まった。それでもまだ、ロボットの懺悔内時間と現在の時間との間には2世紀以上の隔たりがあった。

 

 

 二人が長いあいだ廃教会から動こうとしないので、心配した天体たちが交代で彼らのことを見守った。黄緑色のまぶしい太陽が一番高い場所に登って、何度かふたりを探したりもした。薄紫の月が見張り番をさぼって、何度か他の恒星を冷やかしに出かけたりもした。

 ロボットは懺悔の合間に教会裏につくられた芋畑の整備を手伝った。

 男は余剰があるときにキャラバン隊から機械油や真空管などを買った。

 不定期にやってくる信者たちはふたりを物珍しそうに見守った。懺悔にきた者は、男がキリのいいところで切り上げるまで律儀に順番を待った。待っている時間でふたりの様子をスケッチする者もいた。写実的なものから難解な抽象画まで、書き手によってさまざまだったが、きまってロボットが右、男が左の配置だった。

 きっかり20億ポイントで、男がまた一つ提案した。男は出会った頃よりいくらか老いていた。ロボットの懺悔内時間は、今から一世紀前にまで迫ってきていた。

 男は気まずそうに、台座のささくれを指で弄った。ばつの悪そうな顔で、まるで隠していた罪を告白するかのようだった。やがて口を開いた。

 今までおまえを、神さまは許してくださると言ったけれども、どうにもわからない。もしかしたら許してくれないかもしれない。あまりにも、多すぎて…。

 ロボットは黙ってその言葉を聞いていた。

 だから、と男は言った。これから先は、悪いことじゃなくて、善い行いをしたと思えることを話していくのがいいと思う。それで、都合のいい話かもしれないけど、それでプラマイゼロ。神さまも情状酌量でチャラにしてくれるんじゃないかなって。

 長い時間の中で、男とロボットの間には確かに絆が生まれていた。しかし編まれた糸は血に汚れすぎている。

男は最後にいい夢を見ようとしていた。

 

 

 西暦2180年11月22日午後11時59分、キャラバン隊を襲う食屍鬼4体を撃退。

 残19億9831万4937ポイント。

 

 西暦2186年9月2日午前8時18分、第24オアシス湖底のパイプを修理しインフラを回復。

 残18億7386万2011ポイント。

 

 西暦2227年7月15日午前3時45分、検問所跡に住む母娘を砂賊から救出。母親はまもなく死亡。

 残14億9489万84ポイント。

 

 西暦2227年7月17日午前0時0分、砂賊のアジトを襲撃、撃滅。

 残14億9488万9999ポイント。

 

西暦2264年12月10日午後4時32分、牧場から脱走した雄のコロッカスを追い立てて戻してやる。

残13億5万7423ポイント。

 

 

 10億を切ったところで、男が倒れた。砂とともに嵐に乗ってやってきた、遠い地の流行り病だった。

 

 数十年ぶりに、男は廃教会に一人だった。

ロボットは男の病状を診るなり、ワクチンがある場所を知っていると言って戸の外へ消えた。どこまで行くのかと聞くと、隣の大陸だと返ってきた。大陸という言葉を男は知らなかった。海を隔てた、遠い地だ、とても遠いのだ、というと、海という言葉は分かったが、男にはうまくイメージすることができなかった。

 おそらく自分が助からないであろうことを男は理解していた。そして怒りに震えた。自身の運命にではなく、今、友が、また救われぬ道を歩んでいることが悔しくて、胸を掻き毟った。

あと半分なのだ。あと少しで彼は救われる。ここまできて、彼はまた彷徨うのか、この無慈悲な世界を。また一人で、最初からやり直すのか。誰にも認められず、その軌跡を知られることもなく…。

男は気力を振り絞って紙束を引き寄せた。それは20億の折返しから付けはじめた、人の手には余る善行の帳簿だ。そこに、一体のロボットが確かに存在していたのだ。

友のためにできることは何かを考え、男は紙束を掴んだ。

 

 

 およそ文明と呼べるものが滅びた世界にあっても、人は書物を手に取った。永く眠っていた書物は、しかし開かれることなく火にくべられた。明日の光よりも、いま燃えている火を絶やさぬことに必死だった。

 そんな世にあって、ある新しい書物が刊行された。紙は黄色く、がさがさした粗悪な質だったが、不思議と人の心を惹きつけた。それは英雄譚だった。

孤独の放浪者が旅の中で、ただただその身を他者の為に使い、どこへともなく去ってゆく。時に戦い、時に施し、時に追われる。主人公である放浪者がどこから来てどこへ向かうかは誰も知らない。題名は記されておらず、作者の名は「チャーチ」とだけあった。

たちまち題名のない本の噂は広がり、熱狂が伝播していった。きびしい冬を乗り越えるだけの熱を、人々は獲得したのだ。街の印刷所は不眠不休で写本した。また問い合わせも殺到したが職員の誰も作者について知る者はおらず、人々はあふれ出る感情をどこに向けるべきか戸惑い、とりあえず印刷所の前に像を建てた。像は本に出てくる「放浪者」のイメージを固める一助となった。題名のない本は老若男女に受け入れられ、熱が浮浪児に至るまで行き渡ると、今度は街の輸出品としても重用されるようになった。

街が本の発行日を祭日にしたという話は、男の耳にも入ってきていた。廃教会を訪れる信者たちは伏せたままの男を心配したが、男は本について聞きたがった。

ついに男の命の灯が消えようという日、傍には3人の信者がいた。男は枯れた喉を震わせて言葉を紡いだ。あの題名のない本を、いつか人々は忘れてしまわないだろうか、一時的な熱狂だったりはしないだろうか、と。信者の一人が答えた。

 あの本は後世にまで語り継がれるでしょう。街の熱狂ぶりを知っていますか。放浪者「さま」なんて、人々はまるで「神さま」のように崇めています。彼の優しさがいつか自分の前に現れて、救ってくれるんじゃないかって。

 その瞬間、男の目が見開かれた。死の淵にあって、男はそれを認めた。それとはすなわち、罪にほかならない。

 男は、ロボットを神へと仕立て上げてしまったのだ。なにより神に許しを乞うていた友を。なんということだ。神は、神になってしまった者は、だれに許しを乞えばいいのだ。だれがその罪を聞こう。だれが、神を許すなどと…。

 砂嵐が戸の向こうで吹いている。赤茶けた砂は刃となり、過去の遺物たちをゆっくりと、しかし確実に削り落としてゆく。