ささくれた火

先輩からマッチをもらった。根元をちぎって、固い擦過部とパッケージの蓋でマッチを挟み、引き抜くことで点火するタイプのものだ。要はガムの「Fits」みたいな感じ。

 

マッチを日常で使う場面はごく限られる。実家の仏壇のロウソクに火をつけるくらいだ。それすらもライターやチャッカマンで事足りるし、その方が安全だ。スーパーのレジの前に陳列されている昔ながらの大箱は、買い手がいないのかたいてい埃を被っている。どこかでマッチの製造メーカーが生産をやめたという話も聞いた。理科の授業でアルコールランプに火をつけた時の興奮を思うと少し寂しい。理科が楽しかったのはあれが最後かもしれない。

 

おれも先輩も寮住まいなのでロウソクもアルコールランプもあるわけもなく、使いみちはもっぱらタバコに限られる。ライターより不便なものの、ライターにはない擦過音と木の燃える臭いで新鮮な気持ちにさせてくれる。良いものを貰った。

 

マッチを使うという行為は、もはや非日常に片足を突っ込んでいる状態だ。だからこそ新鮮味があって楽しいのだと思う。このご時世にわざわざマッチを使うだけで、古い映画の登場人物のような、キザったらしい演出を手軽に味わうことができるのだ。楽しくないはずがない。それくらいに非日常になっている。あるいはみんな、マッチを擦るたびにアルコールランプを思い出しているのかもしれない。

 

そういえば、とカバンを漁ってみると、ビジネスホテルのマッチが出てきた。中身はほぼ使っていないので大量に残っていた。

先日飛騨などに旅行に行ったとき名古屋で一泊したホテルのもので、淡白なデザインだが見ていると旅行のことを思い出すことができる。日常のなかでマッチを目にする機会が無くなったことで、お土産のペナントや置物のように、思い出に浸れるアイテムになりつつあるのかもしれない。

いつかラブホテルのマッチを突きつけられて浮気を問い詰められてみたい。

ダミー・バー・ヘッド

開け放した窓から空を見上げたら、蜘蛛の巣を見つけた。ふと手を伸ばすものの、何度やっても空を切る。

はて。どうやら空に巣を張っているようだ。戦闘機が引っかかっている。脱出したパイロットは、やはり蜘蛛の糸に絡め取られていて、むしゃむしゃと食べられた。

食べカスが地上に降る。あの辺りはスラムのはずだ。といっても、ここらはどこもかしこもスラムなのだけれど。スラムに、血とヘルメットの雨が降る。きっとみんな、怯えてすくむ。露店の屋根に穴が開き、くず肉のスープがひっくり返る。

次に戦闘機がスラムに降った。蜘蛛が、その8本ある足のうち3本を器用に動かして、蹴落とした。戦闘機は頭から地上に打ち付けられて、バラバラになる。スラムもまた、戦闘機に打ち付けられて、バラバラになる。頭から血を流して泣く子供。ひっくり返ったスープが冷めていく。墜落現場では、運よく生き残ったものたちが、運よく生き残ったパーツを持ち帰っていった。シートの綿のひとつまみも、割れた計器の針のいっぽんも、余さず全部持っていった。あっという間に、骨組みすら運ばれていって、そこには崩れた石畳だけが、食べカスみたいに散らかっていた。

ふと空を見上げると、蜘蛛が蹴落とされていた。大きな花火が咲いて、なのに、不発弾みたいに、蹴落とされた。けばけばした、縞模様の、風船のように丸い腹が。音もなく、ぐずぐすと、ゆるゆると、けど確実に、スラムに降り注ぐ。僕らはみんな、何も言わず、ただそれを見ていた。

スラムじゅうの、屋根どころか建物全部を突き破り、くずな僕らはたちまち潰されてしまうだろう。もうすぐ蜘蛛と僕らと、怪しい肉の血のスープが、スラムの壁の中いっぱいに注がれる。僕らの世界が、ひっくり返る。子供の泣き声が聞こえる。

自然体

クセがすごいらしい。字の話だ。会議で書記を任されたのでちょっと低めに架けられたホワイトボード相手にに四苦八苦していたら、クセがすごいと言われた。読めない字ではないとのことなので、会議はそのまま続行し、なんら不都合もなく終了した。

 

自分の字がどういうクセなのかを説明したいけどここはインターネットなので難しい。そもそも字ごとに書きかたが違うのできりがない。例を挙げると「る」が「こざとへん」みたいになる。

クセがついた原因は、授業中ノートを取るのが退屈だったのでお遊びで書道家みたいにズバババーンキュッと書いてたら楽しくなってしまったことにある。書道家スピリットのおかげか、汚かった字はかろうじて読めるレベルにはなったけど、今でも心の中でズバババーンキュッって言いながら書いている瞬間がある。そんなんだから真面目に勉強しているようでその実、内容はさっぱり頭に入ってなかったりする。

 

みんなどこかしら字にクセを抱えている。年配の方になると特に。達筆という言い方をするけど若造の自分にはクセがすごいとしか思えない。読めなかったとしても達筆と評されると何も言えなくなるのでずるいと思う。

そんな人にも達筆じゃない時期があって、達筆になりかけのときの字はそれはもうクセがすごかっただろう。

汚い字はともかくクセのある字は矯正する必要がないのでほったらかしになり、年を経るごとに、癌のようにクセの深度は増していく。子供の頃の汚い字から、普通の字なるようにと矯正されて、やがてそれぞれのクセを獲得していく。普通のきれいな字なんて、インターネットや印刷機の中にしかない。クセなんて言っているけど、ほんとうはクセ字なんてものはないのだと思う。みんな自分の文字を持っているというだけだ

スモークガラス

インフルエンザが流行りはじめているというので、使い捨てのマスクをしていた。けれど顎のあたりがとても痒くなって、すぐに外して捨ててしまった。

顎に生えた髭のせいだ。まだ柔らかい髭が固い紙製の生地にあたって、とても心地が悪い。ついでにうつ伏せで寝ると枕にあたってこれまた心地が悪い。

 

剃ったら剃ったで鏡で見る自分の顔にとても違和感があるので剃らないようにしている。つまりおれは、19年髭無しで生きてきた実績より、1年髭を生やして生きてきた現在の「それっぽさ」を信頼している。

髭の存在が、19対1のワンサイドゲームをひっくり返す要因だとは到底思えないけど、実際そうなっているのだ。人の価値観や認識はあまりあてにならないのかもしれない。

 

マスク繋がりでいうと、日曜日にガスマスクをして茶畑の跡地を走り回っていた。サバイバルゲームというやつをしていた。

眼鏡とガスマスクは併用することができず(昔はガスマスク用の眼鏡があったらしいが)、コンタクトレンズを持っていなかったので裸眼でガスマスクをした。視力が少し回復していたのか、あまり困ることはなく楽しくプレイすることができた。

日中はそのまま、休憩中も裸眼で過ごしていたのだけど、スマホ画面の黒色に反射した自分の顔に、また違和感を覚えた。それは、眼鏡をしていないということに対してのものだった。

裸眼で過ごしてきたのは17年、眼鏡をかけたのはそれからの3年だ。また歴史の浅い方である現在に感覚が寄っている。自分の幼少期の頃からの顔を正確に思い出せはしないし、毎日鏡を見るうちに「それっぽさ」は徐々に徐々に推移していくものだとしても、自分が見ている自分が、だんだんと知らない人になっていくようでなんともいえない気持ちになる。

これから先、鏡の中の自分にもはやひとつも確信が持てなくなったとしても、久しぶりに会った友達は「変わらないな」と言うのだろうか。

同窓会行くのやめようかな。

つれづれ2

会社の勧めで、トヨタの展示会へ行った。いかんせん車に興味が薄いせいで途中までモーターショーと勘違いしていたが、広い駐車場を会場としたわりとのんびりした雰囲気だった。

のんびりしすぎて、黒光りする新車の高級感と背広を着て動き回るディーラーの方に違和感があるくらいだった。

どうせなら重機の展示会が見たい。カニみたいな双腕作業機とか、カニみたいな多脚作業機が動くところを見てみたい。あと除雪車とか。除雪車はかっこいい。

 

展示された車の脇には、車名、型式、性能といった情報が記載されたパネルが立っていた。隅から隅まで読んでみるが、いまいちピンとこない。

マッドマックスを観たあとに「V8!V8!」と例のポーズではしゃぎはするものの、心の中では「V8ってなんや…」と専門用語に気圧されてるようだからまるでだめだ。たぶんエンジンが強力ってことなんだろう、というくらいにしか。

マックスの愛車が8なんだから、おれのボロ車は…2くらいだろうか。映画よろしくエンジンまわりを外に出して冷却効率を良くすれば3くらいになるかも。バケットホイールエクスカベーターはきっと3200くらいあるに違いない。F-ZEROは5万。5万はある。昔ゲーセンにあったF-ZEROレーシングゲーム、自キャラがランダムで決まること以外は面白い良いゲームだったな。ちなみにおれのキャラは変なジジイだった。

 

展示会場を歩いていると、車体の後ろにV36と刻印された車を見つけた。そういうもんだろうか、とぼんやり考えながら受付でアンケートを済ませ、袋状のジップロックをもらって帰った。パンフレットももらって帰れば良かった。次の車は、丈夫なランドクルーザーも良いなと思った。

タイムマシンは流線形

自転車は徒歩より速く、車は自転車より速い。それよりもっと速い乗り物はたくさんある。

 

速いスピードで移動するほど、土地どうしの距離の感覚が曖昧になる。自分の意識外でその移動が行われているなら、なおさら。

 

新幹線を使うとき、本州なら数時間で大体どこにでも行けてしまうから、ひょっとしたら、車窓から見える灯りのついた家には誰もおらず、人が住んでいないのかもしれないなという想像がある。何もかもすっ飛ばしてしまうスピードがそうさせるのだろう。

 

公共の乗り物は、自分が知っている、また憶えている道が終わると、目的地までは何キロで何時間かかるとかの数字に置きかわる。数を数えるステップに移行したとき、はたしてそれは移動しているといえるのか。エレベーターに乗っているときの感覚と似ている。

GPSの上では移動していても、それとは別に、なんだかとても曖昧な空間に留まり続けている気がする。少し怖いけど、嫌いじゃない。

新幹線という空間に適当な風景を窓に貼っつけて、目的地のデータを読み込む時間稼ぎをしているのではないか。なんてことも考える。風景に飽きてそんなこんなを想像していると、これもまたすぐに飽きて、いつの間にやら眠っている。

世界は五分前にできたっていう理論を少し信じている節がある。

 

村上龍の「五分後の世界」を積んでいるのを思い出したけど、読むのはまた今度にしよう。

その舟に乗せてくれ

言葉の意味がわからない単語を見つけると、国語辞典的なページで検索してスクリーンショットに残す習慣がある。それらは古語だろうが医学用語だろうが、一緒くたにしてフォルダにまとめている。

 

そうすることで語彙が増えるかといえばそんなうまい話があるわけもなく、自己満足すら通りすぎてただ作業の目で繰り返し行っている。

 

とりわけ気に入っている単語なんかはよく覚えていられるのだが、使いどころのないものばかりだ。ファージとか。テロメアなんて意味すらよく分からないけど、なんとなく語感がかっこいいので気に入っている。

 

 

古本や歴史の本を読んでいると、知らない単語が立て続けに出てくる。1ページのうちに何度も辞書を引かなければならない時もままある。その度に一旦本から意識を離れさせなければならないので、臨場感もテンポもあったもんじゃない。娯楽としてか、勉強としてか、作業としてか。一体おれは何を目的にこの本に向かっているのか、分からなくなってしまう。どことなく英語の教科書の例文を和訳しているような感覚がつきまとう。

 

難しい日本語を自分が理解できるレベルに落とし込むわけだからそう難しくはない。外国語だとこうはいかない。長文をひと単語ずつまじめに訳していくと、必ずといっていいほど熟語という難敵に足をとられてすっ転んでしまう。by the wayが日本語で「ところで」だなんて、義務教育で教えられていなかったら、おれたちはいったい何て訳しただろう。

 

ところで、中学生くらいの時に、洋楽を自分で日本語訳してみようとするの、どうしてなんだろうね。誰しも一度はやったことがあると思うんだけど。