外の人

おれの見る夢にはデパートがよく出てくる気がする。今日見た夢にも出てきた。小さい頃祖母によくデパートに連れて行ってもらったものだ。たぶんそれに起因している。祖母も出てきたし。

夢から醒めたあとはいつも、夢の中で会った人に会いたくなる。何だか急に申し訳ないような気持ちになって、過去のことを後悔したりとか、お互い生きてるうちに言える事を言っておきたくなったり、ぐるぐるしてきて、何も集中できなくなる。
そんなだから、故人が夢に出てきたらおれはきっと泣いてしまう。言いたいこと、謝りたいことはもう、永遠に届かないのだ。たとえそのひとの墓前で罪を告白したとしてもそれは都合の良い自己満足だとしか思えてならない。本人からの言葉でなければ絶対に認めないだろう。我ながら面倒くさくてしょうがない。
だから故人に会うことは怖い反面、せっかく夢なんだから堂々と出てきて何か喋ってほしい。

不思議なことに、おれの見る夢には故人が一切出てこない。顔を忘れているわけでは絶対にないのに、1人も出てこない。もしかするとおれは相当淡白な死生観を持っているのかもしれない。話したいことがたくさんあるのに。墓や仏壇の前でしゃべるのじゃどうにもダメなんだ。返事が返ってこないし、おれの中からも何もでてこない。都合よく故人の返事を想像できないししたくない。「今ごろ天国でどうしてるかな」葬式の仕出し弁当を食べながら交わされるそんな会話にいつまでも入れずにいる。結局その人が何を思っていたのかなんて、その人にしか分からない。美談や教訓として語り継ぐかクズだったと吐き捨てるかは残った人の言ったもん勝ちに過ぎず、もし魂が四十九日留まり続けるというのなら、あーだこーだ言う親類の頭の上で、意地悪な顔でほくそ笑むくらいでいてほしい。誰もが心に秘密を抱えたまま、勝ち逃げしている。とてもずるいと思う。

夢の内容を書こうとおもっていたんだけどなあ。もうあまり思い出せないや。たしか霊峰の頂上から自転車で転がりながら落ちる。あとデパートの中で雪合戦。たしかそんな感じだった。

10分間の菩薩

日記を書くといった翌日に寝落ちしてさっそく書き損ねた。しょうがないじゃない。夜勤だもの
夜勤は疲れる。どれくらい疲れるかというと、今これを書いている時ももう夜という字がゲシュタルト崩壊を起こしているほどだ。そのまま遊びに行こうものなら、行き先は慎重に選ばなければいけない。徹夜した時のどうかしてるテンションとよく似ている。顔や髪はべたべた、あらぬ方向へ思考が跳ね回り理性的に振る舞ってもどこか欠けている。おれも例に漏れず、どうかしてる頭でホットドッグを4個も食べちゃったりする。みんなそうだと思う。急にポテトサラダを1キロくらい作ったりしてると思う。パチンコとかやってなくて良かった。
辛い・眠い・長いのトリプル役満にも関わらず点数は安いときたもんだ。得られるリターンは少ないくせに差し出すリスクは高い。定期的にやってくる夜勤に、そんなに稼ぎたいのかおまえらはと、ロボットモノの主人公みたいな言葉が思わず口を突いて出る。稼ぎたいからおれみたいなのも雇っている事実には都合よく蓋をする。やたら社会に反抗するのは10代とチェ・ゲバラの特権。関係ないけどゲバ棒の語源ってゲバラじゃないんだね。いつも持ってるイメージだったから。キューバ行きてえ。


散々言ったあとで何だけど、個人的に好きなところもある。もちろん仕事は好きじゃない。道端の花を愛でる的なそんな楽しみだ。

頭の後ろから浴びせられる叱責の連打と、終わりのない作業に追われる一夜を乗り越えて迎える朝日が好きだ。なんともいえない気持ちになる。工場の高い窓から差し込む朝日は、演出なんじゃないかと笑えてくるくらい白く、けして侵すことができない神聖さがある。実際眩しすぎて光の先が見えなくなる。外で核爆発でも起きてないと不自然なくらいな眩しさ。本当に漫画みたいなことあるんだなってつい見てしまう。細い金網にびっしり積もった粉塵が反射して氷砂糖みたいに輝く。それらを眺めながら歩いていると、仕事から解放された喜びと疲れからかとても優しい気持ちになる。その間だけおれはたぶん解脱してる。ただし工場から帰るときまってミーティングがあるので悟りが閉じる。魂が涅槃を求めている。

余談として、夜に業務を終えて歩く風景も好きだったりする。遠くで揺れる高炉の大きな蒼い焱。過剰すぎるスポットライトの集合体。風で倒れないか心配になるジブクレーンの、暗い白と赤。どこか現実味がなくて、その方向へ歩いても景色は変わらずけして辿りつけないんだろうなという気持ちになる。でも一緒に歩く先輩たちは誰もそれを見ようとはしない。おれはそれが寂しかったりする

ていうかもう寝よう

久しぶりに自分の為だけに文章を考えてみる。会社の報告書や日誌とは違う、何の損得もない文章だ。自分の為だけの文章は、誰の顔色も気にしなくて良いはずなのに、浮かんだことを片っ端から書いていけばいいはずなのに報告書や日誌よりスラスラとはいけない。ちゃんと考えてる証拠だ。頭を使うことは良いことだ。

なんたってまた日記を始めたのかというと、それは最近頭を使っていないと思ったから。脳みそは使わないとだんだん弱る。何も考えず何も欲しがらず生きていくのはとても寂しい。今の俺がそうだ。買った本はおろかブルーレイの映画すらも積んでいる。休日は外に出る気力もなし、布団の上でスマホのゲームをポチポチポチポチ、ツイッターの反応に一喜一憂。それでもそんな今が、いつまでも続けばいいとは思わない。何が好きで何が欲しかったのかを思い出さなければならない。手遅れになる前に。頭を使おう。俺はけして頭がキレる方ではないけれど、考え続けるかぎり俺は1人の人間だ。周りのみんなは忘れているかもしれないけど、俺だって1人の人間なんだよ。

どんなことを積み重ねれば俺は俺を取り戻せたといえるだろうか。誰も方法を知らない。俺も知らない。とりあえずは自己満足を積み重ねれば、近いものを得られんじゃないかと思った。

そこで日記を再開することに決めた。俺は大雑把な性格なくせに何かを記録するのが好きだったんだ。グループワークの書記や銭勘定とかそんなのじゃあなくて、もっとくだらなくて取り留めのない、実家の電話の脇の、10年経っても減りゃしないメモ帳みたいな内容だ。何でもいい。自分で考えることが大切なんだ。定期的に自分の為だけに文章を書く。根拠はないけど、そうする事で何かが変わり始める気がしたんだ。どうしてこんな事考えたんだろう。夜勤の入りにまったく寝ていないせいからかな。どうかしているのだろうか。でも根拠のなさと自信は反比例する。それが10代の特権じゃないか。思春期が終わるまで、どうかそっとしておいてほしい

 

乾いた皇帝

不時着した惑星にはペンギンがいた。ものすごい数のペンギンがいた。しかし彼らと共に過ごすうちに徐々に違和感を覚えはじめた。彼らは狩りをするでも繁殖するでもなく、ただそこらじゅうをうろうろするだけなのだ。銅の丘を登り、同胞と肩を寄せ、首を上げたり下げたりするだけで何もしない。何も食べない。何も飲まない。何も排泄しない。何も喋らない。
小さな瞳を一目見ようと、濃い模様に顔を近づけてみれば、表面はのっぺりしていてどこにも器官といえるものがみられない。愛くるしい姿はただのシルエットで、生き物としてではなく、彼らのペンギンらしさはただの記号だった。彼らに意思はない。だがそこに立つだけでペンギンとして成り立っていた。たとえこの惑星が滅びても、その姿は変わることなく残り続けることだろう。気付けば私はその永遠の芸術の虜だった。
宇宙船を修理し、地球に帰還する際に私は1匹のペンギンを連れ帰った。長い宇宙の旅の中でも、やはりペンギンはそこにいるだけで、眠りもしなかった。帰還したときには僕は奇跡の生還者として一躍時の人となったが、宇宙学者の偉いさんからはこっぴどく叱られた。ペンギンを連れてきたのがいけなかった。私は人類史上初めて惑星間で誘拐をしたことになる。サイエンス誌には宇宙海賊と、褒めてるのか貶してるのか分からない見出しがついた。私はまんざらでもなかった。
私の軽率な行動は、連日会議にかけられた。宇宙人の怒りを買った、報復にやってくるぞ。誰かが言ったが、すぐに流された。結果、私への処罰は、ペンギンを政府が保護するというものだった。一民間人の手に渡すには、未知なことが多すぎて認められないということらしい。案の定、政府の機関が秘密裏に研究を進めていたそうだが、ついさっき脱走したという情報を同僚から聞かされた。同僚は信用だとか立場だとかを口にして頭を抱えていたが、私は心の中で、よくやったと立ち上がって拍手した。
あの惑星で撮った写真が一枚だけある。実際にこの目で見たはずの光景なのに、写っているのは加工した岩石砂漠を背景に、いかにもな権利フリーのイラストを貼り付けたような、作り物の風景だった。水さえなかった惑星にいた彼は今、この青い惑星のどこかで泳いでいるのだろうか。記号でしかなかった彼に、それは生命が宿る瞬間といえるだろう。だけどどうしても、あのペンギンの泳いでいる姿がイメージできない。きっとまたどこか干からびた砂の上で、何をするでもなく首を上げたり下げたりしているのだろうと思う。

仄暗いお湯の底から

 この仕事を始めてからというもの、頭の中が詰まっているようだった。これは別に、元々すっからかんの僕の脳みそが有意義で効率的に機能しはじめた、という日々充実してることへのへたくそな比喩なんかじゃない。まるで脳みその皺の間にしこりができているようで、なけなしの細胞が押しやられて低く呻いている。酸素とか糖分とかそういったもろもろが足りていないのか、集中力も衰えてぼうっとする時間が増えた。脳細胞がじわじわとしこりに侵食されていき、思考が圧死していく。衰退の二文字がちらついて、言いようのない寂しさがこみあげてくる時がままあった。脳内に茫洋と広がるなんでもないスペースがゆっくりとのしかかり、音も無く僕を軋ませた。仕事を始めて四ヶ月と経っていなかったが、自分には向いていないと、限界を感じていた。
 仕事自体はけして身体が資本というような重労働ではない。かといって炎天下にスーツで挨拶回りにひた走るようなストレス多きサラリーなマンでもなく、もっぱら空調の効いたオフィスビルで清掃をこなすだけの何でもないものだった。
 電話の呼び出し音とヤニ臭さをかき混ぜるような混沌とした日中に用具の積んだワゴンを転がす訳にもいかないので、仕事が始まるのは人の消えた夜からとなる。夜に出勤して朝遅くに退勤する。休みが少ないわけじゃないし、給料だって悪くない。不満な点といえばその勤務時間くらいなものだったが、その唯一の不満が僕を深く蝕んでいった。
 昼夜逆転の生活に最初から適応できるはずも無く、しばらくは寝不足に悩まされた。身体は常に重く吐き気がすることも多く、脂っぽくなった顔には久しぶりにニキビができた。毎日が徹夜明けのようなものだから頭が満足に働かず、物を深く考えることも少なくなり、以前よりずっと怒りっぽくなってしまった。そして少しだけ、卑屈さも増したように思う。当たり前の時間に朝日を迎えないだけで、他の人との隔たりを強く感じて、僕だけがまともな生活を送れていないように感じるのだ。
 まだ過ごしやすい朝日の下、馴染みの薄い帰路につく。アスファルトの纏うほんのりとした熱が、空調で冷えた体を足元から包みこんだ。気づけば太陽を覆っていた雲が流れ、押さえつけられていた本来のぎらりとした眩い光が正面から迫ってきていた。目に見える自然の厳しさにため息を抑える気も起きない。
  その光の下、登校中だろうか、ランドセルを背負った小学生たちが照りつける熱線を物ともせずに歩いている。まるで太陽を背中に従えているようで、向かうところ敵なしといった眩しさを放っていた。
  すれ違うとき、金属を擦り合わせたような高い笑い声が頭蓋にこだますると同時に、僕自身も思わず目の眩むような熱線の下にさらされた。一瞬だけ、息を呑む。つむじに注がれる粘ついた太陽の視線に、何故だか僕は存在自体を疑われている気がして、無意識に大股になった。やましいことなんて無いのに、どうしてか日なたが歩きづらくて仕方がない。寝起きのときの淀んだ不快感が奥歯から漂った。


 いつもより早く仕事が終わった日、僕は人気のない県道を通って帰った。コンビニのLED光であたりは薄明るく、新聞配達の原付の排気音がどこからか聞こえてくる。
  風呂に入りたかった。借りているアパートは風呂がなくシャワーのみだったので、体の汚れは落とせても一息つくことはできない。湯船に浸かって、温かい気持ちのまままどろんで眠り落ちる。暮らしのなかに安らぎを求めた僕なりの至福の形だ。風呂上がりに着るのは寝衣ではなく軽く汗ばんだTシャツで、夜明け前の冷気に体温を奪われることになるが、問題じゃなかった。必死だったのだ。ほんの少しの時間だけ、仕事に壊された日々を抜け出したかった。
   銭湯の場所は昨日、上司に聞いていた。住所を聞くと、僕のアパートの近くだとわかり驚いた。近所の地理はだいたい把握しきったと思い込んでいたが、銭湯があるなんてまったく気づかなかった。聞いたとおりに郵便局を曲がると、赤茶色の背の高い建物に出た。コンビニとはちがう蛍光灯の明かりが「ゆ」の一文字を照らしている。けして小さくない駐車場はがらんとしていたが、話に聞いていたとおり24時間営業のようで入り口には照明が点いている。照明の横には誘蛾灯があり、寄ってきた蛾を落とす電撃音だけが夜を支配していた。僕は立ち止まることなくゆっくりと色の濃いガラスの自動ドアをくぐり、中へ入った。

 熱めの湯が張られた風呂で、頭を壁側の縁に乗せてゆったりと浸かった。肩から下が溶けんばかりに脱力して、指の先の神経が活発になった血流に押されてしびれるのを感じる。僕以外に客は居ないようで、僕はすっかりくつろいで四肢を湯に晒した。僕の心臓の鼓動だけが、水面を微かに揺らした。
   はあ、という声が大きな息と共に漏れる。今日何度目かのそれはため息に似ているが、風呂ではまったく意味が異なる。ほぼ無意識に、閉じた目の端が緩やかなカーブを描く。通常のため息が幸福を逃がすというなら、風呂場では逆に幸福を確かめるものとなる。全身をリラックスしてゆっくりと空気を絞り出す一連の動作は、拳法の演武に通ずるものがあるような気がするのだ。邪念を取り払い、心を傾ける。その瞬間に、細かい全てを忘れる。やっぱり似ている。仕事に壊された生活が、今はどこか他人事のように感じていた。
  このまま溶けていたい、いつまでも漂うクラゲのようになりたいと本気で考えていたその時、すりガラスの引き戸が音もなく開いた。
  心の中で舌打ちをした。夢見心地でくつろいでいたところに、突然現実が足を踏み入れてきたのだ。面白いわけがない。重くなっていた瞼を上げ、僕にとっての招かれざる客を一瞥する。しかし仄暗い視界の中でそれを認めた途端、すうっと血流が止まってしまったように怒りと四肢の感覚が湯気に消えた。そこには梅干しのように赤い肌をした鬼が、立っていた。対の角を生やした鬼らしい鬼が、立っていたのだ。



 鬼とは。鬼とは乱暴で、力が強い。パンツはトラ柄。鬼ヶ島に住んでる。いや雲の上か。いや日本各地で鬼が出てくる言い伝えがある。ということは地上なのかな、自信ないな。ああでも地獄にもいるし、どうなんだろう。確かなことは、鬼は人を脅かす存在で、悪い存在で。人を、喰らう――。
 「・・・っ」
 突然やってきた絶体絶命の危機に、蕩けきった頭が追いつかない。鬼に見つかったらきっと殺される。頭の中で瞬時に膨大な憶測や情報が走るなかで、それだけは確実だと思った。半開きになった口から言葉が出なかったのは不幸中の幸いだったかもしれない。もし僕が鬼だったら、入っていきなり悲鳴を上げられたら良い気持ちはしないから。
 どうやって無事ににこの場を離れられるかの脱出プランを練っている間に、何食わぬ顔の鬼はずんずんと一直線にこちらの風呂場に向かってくる。どうやら鬼は先に身体を洗わない主義らしく、洗い場には目もくれない。
 ちくしょう、身体を洗っている隙に背中を通り過ぎようと思ったのに!ああそういえば父も先に湯船に浸かってしまう人だった。もう逃げられないと悟ったのか、そんな場違いな感慨が湧いて出た。
 そうして、あふれて流れた湯が爪のとがった足先を濡らし、黄色の角で湯気を切って鬼と僕は相対することとなった。先客の正体が人間であると認めた鬼は、目を丸くしていた。僕も僕で、黒目と白目の逆転した恐ろしい瞳に射すくめられて目をそらすこともできず見つめ返した。
 完全に萎縮して身じろぎひとつできない僕は相手の反応を待つしかなく、かといって鬼も僕を見つめるだけで何もしてこない。長く長く引き伸ばされた緊張の中で、意匠も面白みもない湯口から吐き出されるお湯だけが正確に時を刻んでいる。首から肩にかけての筋肉に変に力んで鈍く痛んだ。
 呆然と向かい合う異種ふたり、端を発したのは角アリの方だった。
 「うわ人間じゃん」
 うわ鬼じゃん。予想外にあっけらかんとした物言いにつられてそう返しそうになったが、なんとか堪える。鬼と人では単純に力負けする。一対一のこの状況で主導権を握っているのは間違いなく鬼の方だ。うかつな言動で鬼の怒りを買うのは避けたい。
 口をつぐんで身を固くしていると、鬼はこちらの心境を察したのか「ああ」と何やら得心したようで
 「そうビビるなよ、取って食やしねえ」
 「えっあっそうなの」
 緊張のあまり裏返り、なんとも間抜けな返事になった。本当かよ。僕の動揺をよそに鬼は、茶化すように手を顔の前で振ってへらへらしている。邪魔するぜ、とそのままざぶざぶ湯船に腰を落ち着けてしまった。
 鬼は肩まで一気に浸かり歯の隙間から、ふう、とか、はあ、といった銭湯の常套句を吐き出した。無造作に縁に投げたタオルは、色あせていない黄色と黒のだんだら模様だった。
 「大丈夫、なんですか。僕は」
 もう一度念を押して、僕は勇気を出して身の安全を問いかけた。さっきまで血色の良かった唇は青くなって震えていたが、最後まで詰まることは無かった。
 「そう言ったろ」と鬼は両手でばしゃばしゃと顔を洗いながら言った。人間である僕を気にも留めていないようだった。「俺は風呂に入りに来ただけだからよ」鬼の言葉に僕はようやく少しだけ安堵した。深呼吸をしようとするも吸うのと吐くのとがまるでちぐはぐで、はたして今まで呼吸できていたのか怪しかった。
 「鬼を見るのは初めてかい」
 彼は湯気の行く末を見守るように天を仰いで言った。人間の骨なんてたやすく噛み砕きそうな大きな歯が見え隠れして恐ろしかったが、彼なりの気遣いを感じた気がした。ええまあ、という生返事しかできない自分が途端に恥ずかしくなった。
 「よく来るんですか」
 もちろん銭湯に、という意味だったが、心の中で人里にと付け足した。鬼は少し得意気に口の端を吊り上げた。
 「週2で通ってるよ」どうやら彼は銭湯が好きなようだ。しかし少なくとも週2で近所を鬼がうろついているとは、今までよく出くわさなかったものだ。
 「じゃあお住まいはこの辺なんですね」
 興味本位で聞いてみると鬼は目を細めて、僕も知っている一階にコインランドリーのあるマンションを答えた。不動産屋で見た覚えのある名で、たしか僕のアパートよりずっと家賃が高かったはずだ。
 「安心しな、ここらで俺以外の鬼なんて居やしねえから。俺は物好きだから里を飛び出して一人で暮らしてるのさ。山のてっぺんで一生なんて御免だからな」
  上京してきた若者のような発想に思わず苦笑いした。梅色の筋肉質な顔からは年齢を測ることはできないが、案外に鬼としては若いのかもしれない。
 「里にはもう五十年は帰ってないな」
 「五十年もですか」五十年。それがヒト換算で何年になるのか、そもそも鬼の寿命ってどれくらいなのか僕には知る由も無かったが、鬼の目は遠い過去を見つめているようだった。
 「どういうところだったんですか」
 「退屈なところさ。山だから娯楽と呼べるようなモンは無かったし、千年以上も前から人里には下りるなって掟があってな。毎日変わらない人生で、生きながら腐っていく感じだった。だから出て行った」
 そっけない風を装っているつもりなのだろうが、何故だか僕には強がっているように見えた。
 「でも暮らすには困らなかったわけでしょう。これまで保障されてきた人生や生活を捨てて身一つで飛び出すのは不安じゃなかったんですか」
 喋っている途中でしまった、と思った。出すぎた質問だ。しかしほぼ無意識に口を突いて出たものだった。鬼はじろりと流し目で値踏みするように僕を見つめた。
 「そりゃあ少しは怖かったさ。下りたところでうまくやっていける保障なんてどこにもねえ。捕まって殺されるかもしれねえ。けど、死ぬまで何も起こらない日常に生きて、それで俺の人生に意味があるのかって考えたら飛び出す他なかったんだ。意思を持つ『何者か』になりたかったんだ」
 言葉を選びながらのゆっくりした喋り方だったが、だんだんと語気の強くなっていくさまに僕はそれ以上何も言わず、揺れる水面に視線を落とした。先ほどまでの怯えや恐怖はどこか遠くへ行っていた。
 彼は自分の身を守ってくれるものすら捨てて自分の望むものを求めたのだ。自分の欲求にひたすら真摯なのだ。自分の心に正直に生きていく。やりたいことをやるために動いている。
 誰しも自分の好きなことで生きるという理想を描きはする、だがそれを実現するために動きだせる人はずっと少ないだろう。動き出すことさえできない人はごまんといる。さらに現実というふるいに掛けられ、まわりが徐々に生活と折り合いをつけるなかでついに夢を叶えるに至った者、彼はその一人なのだ。
 「そういう生き方ができるって、憧れちゃいますね。こう、自分の足で立ってるっていうか。自分で道を切り開いてる」
 言葉に嘘は無かった。スタートラインにすら立てない持たざるものとして、畏敬の念すら持ち始めていた。だが彼はひどく寂しそうな顔で困ったように苦笑いした。粗暴で獰猛なはずの鬼がこんな顔をするのかと思わせる顔だった。

 その日以来、僕は銭湯に足しげく通った。風呂は良い。シャワーでは味わうことのできない落ち着きがある。熱い湯に浸かって目を閉じている時だけ、僕は全身にまとわりつくねばねばした不快感から開放される。全身を包み込む温もりに全てを忘れ、口端から恍惚が溢れる時にだけ、僕は真っ当な人間に生まれる。そんな気がした。
 風呂上りにきまって飲むフルーツ牛乳はカフェインたっぷりの栄養ドリンクなんかよりずっと僕を応援してくれる。上がった心拍数が静かに高揚をもたらし、肩をぐるぐる回して肩甲骨をほぐすだけで僕は嬉しくなった。煮えたぎるような外気温と紫外線の暴力は強さを増していったけど、足取りは以前よりずっと軽かった。
 通えるものなら毎日通いたいくらいだったけれど、さすがに一ヶ月分の入浴料+雑費は馬鹿にならない。残念ながら僕はブルジョワジーには程遠い貧乏な一会社員なので、銭湯へは週に3回が限界だった(毎日風呂に入れる程度の経済力をブルジョワジーとは言わないだろうけど)。
 あの鬼とはやはり外で出くわすことは無かったが、夜明け前の客足の絶えた時間に銭湯に行くといつもその姿があった。あんなに恐ろしげだった角も肌の色も今では見つけやすい個性の一つでしかなく、僕から話しかけていく程になった。気の良い異形の彼は、僕の良き友人となった。彼の方も風呂仲間が増えたと言って喜んだ。
 僕たちは愉悦に身を預けながら、他愛ない話をした。故郷の話だとか。今年はドラゴンズがアツいだとか。こしあん派かつぶあん派だとか。経験人数で勝負したりだとか。昨日見た荒唐無稽な夢の話だとか。
 「仕事とはいえ昼夜逆転ってのはどうにもいけねえなあ。早死にするぜアンタ」
 「脅かさないでくださいよ。休日出勤でナーバスなんだ僕は」
 「鬼と普通にくっちゃべってるお前のどこがナーバスなんだよ」
 だけど、初めて会ったときのような話はあれからしなかった。というより彼がしてくれなかった。何故自分の思うままに行動することができるのか。その踏み出す勇気はどこから来るのか。恐怖を克服する術は。僕には無いものを彼はどうやって手に入れたのか。
 僕は絶えず知りたがったが、彼は話すことを避けた。きまって彼はまたあのひどく寂しそうな顔で、力なく苦笑うのだ。それ以上何も言えなくなるから、僕もその話題を出すのはやめた。
 今さら人間が鬼がという問題を持ち出すわけではないけど、まるで僕が屈強なはずの彼を恫喝しているように映るからだ。それは洗い場の鏡の一つひとつに。蛇口のソケットに。意匠も面白みもない湯口から吐き出される大量の湯に。それらが溜まって大きく揺らめく浴槽の湯に。彼の白と黒が逆転した、恐ろしげな瞳に。そして僕の瞳に映る。僕は訳もわからず悲しくなったが、それでも知りたかった。知らなければと思ったのだ。
 自分勝手な僕とは違い、彼は見た目に似合わず聞き上手だった。だから僕はつい仕事の愚痴を言ってしまったり、人に言ったことのない悩みをうっかり喋ってしまうことがあった。彼にしてみれば良い迷惑だったろうが、いつも最後まで黙って僕の話を聞いてくれていた。
 一通り言い終えたあとに虚しさがこみ上げてくるが、そんな僕に彼は多くを語らなかった。けっして手を貸さない、しかし突き放しもしない不思議な距離感。それはお前が自分で解決しなきゃ駄目なんだよ。そう言われた気がした。
 背を押された僕はしわしわになった両の指を濡れた髪に絡ませる。そのまま後ろに手櫛で梳くように流し、後頭部のややごつごつした崖を落ちた先、うなじの後ろで手を組んだ。立てた両膝に突き出した両肘をくっつけて体育座りのようにしてうずくまると、座高の高い僕はやや前かがみになる。何処を見やるわけでもなく、ぐっと近くなった水面が視界いっぱいに広がっている。
 僕は仄暗いお湯の底に沈みながら、喧嘩別れしてそれっきりのぼくと気まずい再会をする。


 段々になった木製の椅子は少し湿り気を帯びていた。猫背の僕が腰を下ろすと、へその周りで折りたたまれた腹肉はあっという間に汗でぬめった。彼は恐ろしく熱された石に柄杓で水をかけている。一瞬で音を立てて蒸発する水と冷めることのない石。思わず呻くような簡易地獄を手がける姿はさすが鬼ということで画になっていた。
 場所を変えようと言い出したのは彼だった。相変わらず浴場には僕と彼以外に客は居なかったが、断る理由もないので承諾した。といっても銭湯にあるものなんてもう水風呂かサウナぐらいしか無いので、必然的にサウナに入ることになった。広いサウナだったがやはり中には誰も居らず、僕たちは一番下の段に並んで座った。
 なあ、と彼はよそよそしく切り出した。
 「初めて会った日、アンタは言ったよな。自分の足で立ってる、自分で道を切り開いてるって」
 「・・・はい、確かに言いました」
 「あの時は悪かったな。気の利いた返事の一つも返せねえで」
 ばつの悪そうな顔の彼に、僕はおや、と思った。彼からその話を振ってくるのは初めてだった。意味をもって、意思をもって生きる術をこの先駆者に教わる。あんなに望んでいた展開なのに、何故か期待よりもずっと後ろめたい気持ちがあった。
 「次はアンタの番だ。アンタの話を聞かせてくれよ」
 鬼はしゅーしゅーと音を立てる焼き石をじっと見つめている。あの日の続きをしようと言うのだ。僕は壁の上面に掛けられたスピードメーター形の丸い温度計を見上げた。年代物なのか、表面が黄色く変色していて温度は読み取れなかった。

 「僕は持たざる人間です」
 「やけに卑下するんだな」
 「まだ良く言った方ですよ。僕は才能はもちろん、何かやってやろうっていう意思すら何も持てなかった」
 「持てなかったのか。持ってなかったんじゃなくて」
 「持ちたい気持ちはあったんです。でも持ち方が分からなかった。それは生きていく意味だとか、報酬だとかになると思うんですよね。自分が生きていく原動力、自信、武器、みたいな。これで将来生きていくとまではいかなくても、自分にはこれがあるって胸を張れるモノ。あなたの、過酷な道であっても一人で生きていくと決めた意思の強さがそうだ」
 「だから憧れるなんて言ってたのか」
 「そうです。でもたぶん僕は馬鹿マジメなんでしょうね、一度コレが好きだと思ったらそれで生きていくほか無いって考えちゃうんです。そうなると次は本当にこれで良いのか、お前はこれでやっていけるのかって膨らんでいって、最後はきまって、夢敗れて路頭に迷う自分が現れる。僕は傷つくことを恐れて一歩も動けない臆病者です。でも僕はそういう生き方に憧れてしまった。変わりたい。けど傷つくのは怖い。自分で何一つ決められない僕は成り行きに身を任せてふらふらしていました。かといって無為に流れる時間から目をそらすこともできないでいる」
 「辛い生き方だな。憧れを捨てることだけができないのか。でもそれはまぎれもないお前が望んだことだ」
 「今さら後戻りはできません。憧れを捨ててしまったら、それこそ僕は生きながらに腐り果てることでしょう」
 「そうか・・・」
 「あなたはいわば成功者だ。自分の確固とした意思で歩き、生きている。――お願いします。どんなことでも良い。僕に生き方を、歩き方を、教えてくれませんか」
 「悪いがそいつは無理だね」
 「どうして、なぜいつもそうやって避けるんです!他人のアドバイスは僕の為にならないというんですか!」
 「教えたくても教えてやれねえんだよ。俺はアンタが思うような立派なモンじゃない」
 ぎり、と奥歯を噛み締めるいやな音がした。岩をも砕くはずの鬼の手が、ぶるぶると震えていた。
 「俺はいわば失敗者だ。うまくいったなんて一度も思ったことはない。俺はちっとも、生きちゃいない」
 あまりにも小さい背中だった。

 「あんたは言っていたじゃないか、意思を持つ『何者か』になりたかったって!里を飛び出した勇気は、信念は!嘘だったのか!」
 違う、今の彼に言うべきセリフはそうじゃない。弾劾される謂われは彼にはない、僕に彼を攻める資格もない。なのに、気づけば彼を糾弾していた。裏切り者、と。
 「嘘なわけがない。けど俺の武器じゃあとても太刀打ちできなかったんだ。覚悟していたはずだった。けれど世間は俺の存在を許しちゃくれない。息をすることさえ俺には許されなかった。居場所の無い俺に何をどうしろと言うんだ。生きる意味が無い、むしろ生きてはならないと思い知らされた」
 「生きる意味は自分で探すんだろう、居場所を求めてきたんだろう!それが、どうして・・・」
 ひたすらに悔しかった。信じていた人が偽者だったという事実よりも、僕はいつの間にか彼に未来のかくありたいという自分の理想を重ねてしまっていて、それが破れたと分かったことが悔しかった。
 「アンタを焚きつけるような思わせぶりなことを言っちまって、本当にすまなかった。俺はただ、久しぶりに誰かと会話できたことがうれしくて。そんなつもりは無かったんだ」
 そう言って俯いた鬼の顔は今にも泣き崩れてしまいそうで、僕は行き場の無い感情の渦に呑まれて胸が張り裂けそうになった。
 一緒だ。彼と僕は、何も変わらない。アドバイスする資格なんてどちらにも無く、また糾弾する資格もどちらにもない。誰も悪くない。
 もう彼の姿を直視することはできなかった。自虐で歪み果てた顔は鏡の中で足りている。自分を保つことだけで精一杯なんだ。もう一人抱え込む器量があったら、こんなところで悩んでなどいない。
 「ごめん」その一言が僕の限界だった。
 「アンタは・・・」鬼は握った拳を腿の上に乗せて、搾り出すように僕に告げる。その恐ろしげな瞳はおそらく、まだ焼けた石を見つめているだろう。「アンタはまだ、スタートラインにすら立っちゃいない。行くも帰るも、アンタの自由だ。俺はもう駄目だけど、アンタにはまだ、希望がある」声は震えていた。泣いているのかもしれない。僕に確かめる術はない。
 「ありがとう。あなたに会えて、本当に良かったと思ってます。」言葉に嘘はなかった。
 「俺は今日限りで、この街を離れるよ。アンタとはもう、会うことはないだろう。本当に、すまなかった・・・」声は震えていた。泣いているのだろう。振り返らずとも感じ取れる。僕は既に涙していたから、おそらくきっと、彼も涙を流してくれているにちがいない。
 今までありがとう。僕は木製のドアに向かって友人に別れを告げた。


 外は眩暈のするような暑さで、アスファルトは裸足で歩けば火傷しそうなほどに熱かった。雲ひとつ無い大空から、砂漠を思わせる灼熱が降り注ぐ。ようやく馴染んできた帰路を歩きながら僕は繰り返しつぶやいた。
 生きてやる、生きてやる。生きてやる!
 住宅街のど真ん中で、木陰で話し込む主婦たちの目があったが、気にならなかった。僕は天を割るように右の拳を突き上げ、太陽に向かって中指を立てた。
 なぜそんなことをしたのか理由を聞かれても困るが、そこには僕の意思があったように思う。
 流れっぱなしだった涙は痕になっていたがどうでも良かった。あの良き友人の為に、あるいは死んでいったぼくの為に、涸れるまで流し続けた。
 ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!
 僕は呪いのように繰り返し叫んだ。

ハリボテエナジー

 効率的な配置のされたこの棒っきれは、雨風も凌げないハリボテであるにも関わらず一人前に塔の名を冠している。鋭く天を刺すような頂きはあらゆる人間を拒み、塔に登ることの単純な高低差というイニシアチブや恩恵を得ることを許さない。唯一の材料である鉄鋼の冷たさも相まって、日常を遠くさせる非日常の特等席は自分一人のものであるという頑なな意思を感じさせる。大地を薄皮一枚摘み上げたようにそびえ立つそれが、一体いつからここにあるのかは誰も知らない。ただ、夕陽に映えた空っぽの塔は見るもの全てに寂寥の感情を植えつけた。
 後に鉄塔と呼ばれるそれと初めに接触したのは幼い兄弟だ。ランチボックスでも開きたくなるような気持ちの良い原っぱに鎮座した未知は、あっという間に少年たちの心を鷲掴みにした。少年の小さな心臓を無限の好奇心が蹴り上げてキックスタート。バクバクと音を立ててエネルギーを生み出す。本能のままに一歩、また一歩と踏み出す二人だったが、弟の鋭敏な自己防衛の触覚が、逆立つウブ毛とぴりつく緊張を感じ取りかろうじてその場に留まる。だがその魔性に魅せられた兄の歩を止めるものはなく、丸々とした赤い指はついに、想い人の冷たい背中を撫でた。
 直後、兄を貫ぬく拒絶の声が辺りに響き渡る。牛追い鞭の空を打つ破裂音に似た衝撃は、華奢な少年の体を容赦なく突き飛ばした。きりもみ状態で大地を滑るように疾走。三度のバウンドを経てようやく地に足のついた兄の背中からは白の帯がたゆたう。それはけして興奮のあまりに上気した純粋さから来るものではなく、ほどなく風に乗ってきた肉の焼ける匂いに弟は言い知れぬ恐怖でぐずり始めた。対する鉄塔は何事もなかったかのように揺るぎなく、残る弟を見下ろしている。その目は試しているのか、侮蔑のそれか、それとも無関心か。弟はひとり、神罰を目の当たりした。
 兄弟の家族を中心に、鉄塔のある野原から一山越えたところに碑が建てられた。それは兄の魂を鎮めるものであり、鉄塔の許しを乞うものだ。子供のやったこととは言え、彼女(性別不明)はいわば先住民で、我々は無神経なアウトサイダーに過ぎない。人知を超えた力に人間の出る幕はなく、人々は碑を建てることでなんとか事なきを得ようという思考放棄を選んだ。孤独な彼女のご機嫌とりのためにと、碑は鉄塔の姿を模して造られた。人間側の勝手な妄想の押しつけに、ひとりになった弟は反対したが、両親は優しく諭すようにしてまともに取り合わなかった。
 碑が完成した明くる朝、彼女は文字通りのハリボテである碑に手をかけていた。オリジナルの彼女と似せられた彼。鉄塔に比べればとても釣り合わないほどに碑は不恰好だったが、黒く細い糸が互いを結び、希薄ではあるが確かな関係を見せつけている。鉄臭い謎の生命体が触手を伸ばしているように見えなくもない。わずかに弛んだ吊り橋の上で、コマドリたちのシルエットは時折首を回すだけで微動だにしない。手をかけられたのか、手を取り合ったのか。ハリボテに宿る兄の魂が繋がりを望んだのか。やはり彼女は仲間が欲しかったのか。大人たちはその是非を考えるものの、出る答えはどれも「わからずや」の主張だった。正解の出ない不毛な論争。嫌気のさした弟はひとり、変わり果てた兄を見上げる。兄もまた自分を見ている気がした。はたして兄が幸せなのか後悔しているのか。それを知る弟の魂は、またもや思考放棄した大人たちの手で、兄と同じ彼女のレプリカをあてがわれた。それでもいい。翌日にはあの日のようにまた手を繋いだ。
 
しばらくして学者が、鉄塔のことを研究しにやってきた。長年にわたり犠牲者を出しながらも進められたプロジェクトの末、地方の天才の力を借りることで、その大きなエネルギーを取り出すことに成功した。手の内に淡い光をもたらす神のような力は電気と名づけられ、その後の人類の生活を大いに向上させることになる。
味をしめた資産家たちが合理だけの空虚な塔を、金にものを言わせて建てまくった。何も言わず平等に手をかける彼女。東西南北を駆け巡る血管は、数ある鉄塔全てに生を吹き込む。だが捉え方によっては、黒の触手に侵されて同列化された感染者ともいえる。路線図のように端まで繋がりを持った鉄塔たちは、全てが彼女の仲間となったのか、それとも全てが彼女なのか。物言わぬ彼女を前に私たちは知る由もない。
彼女の電気エネルギーは有限らしく、拡大する市場に対して供給不足になることは少なくなかった。しかしその度に建屋が新しい鉄塔と併設され、中ではとても立ってはいられないほどの熱風が黒いダイヤを洗った。すると接続された鉄塔から彼女は熱エネルギーを受けることで、どういうわけか変換して自身からまた電気を出し始めた。あらゆるエネルギーを喰らい電気を吐き出す、いや、生産されると言うべきか。彼女が彼女だった時間は終わり、産業の一つとして良いように管理される蚕と何ら変わらなくなった。彼女が生きているか、意思を持っているかなんて誰も気にしなかった。
 彼女と私たちが初めて出会った春から、何百回目かの春。兄弟が原っぱで見上げたオリジナルの正確な場所は分かっていない。ただ、その姿は心奪われるほどに美しいと聞く。サッカー場のやや固い人工芝に靴底を沈めながら、丘の上の鉄塔を見やる。ハリボテを繋ぐ鋼鉄のリベットと目が合った気がした。

DNA

 枕の傍の小窓から光が差した。瞼ごしに眼球を撫でる白の色が、瞼の裏の流れる血潮を透き通らせる。陽の光を受けた顔面が、視神経、皮膚、毛穴、鼻の内側のうぶ毛を通して朝の訪れを感じ取り、体全体に報せていく。シャッターの下ろされた脳が徐々に覚醒し、電波信号のスコップがコークスをたっぷり持ち上げて、灼熱をも飲み込む蒸気機関と黒光りする石炭の山を忙しく往復する。でも初めに目を覚ましてノビをしたのは僕ではなく、近所の野良猫でもない。世界で一番の早起きは、体を起こすと両手の指を絡ませながらうんと頭の上へ伸ばした。二の腕の筋組織は突っ張り肩甲骨が背中に浮く。ピンと跳ねた後ろ髪を掻きながらもらした気持ちの良い欠伸が、酸素を目一杯に取り込み脳と身体じゅうの細胞が活力を見いだす。やがて吐き出した覚醒の息吹が、僕を吹き飛ばした。僕だけじゃない。部屋全体が、それぞれ独自の重力を持ったように左右上下に落ちていく。ベッドが一瞬で木くずになる音すら僕の耳には届かず、抗いようのない力に皮膚を引きさかれ、空高く打ち上げられた。お隣の新婚夫婦や僕のアパートも同じく、近所のショッピングモールも動物園のパンダもまた空に落ちていくのが見える。僕の体が回転するごとに、見上げる地上は遠のいて、頼りない重力を頼りに天地を何とか見分けようとした。勢いはとどまるところを知らず、大気の厚い層さえも突き抜けて、気づけば天に落ちていった僕たちにはもう宇宙の方が足の届く地上で、酸素のある故郷の星は僕の手では届かない天空だ。神のような視点で見た地球は、かの有名な宇宙船の乗組員が表したように確かに青かったけれど、あんなに大きな石つぶてはめり込んではいなかった。あっさりと砕け割れていく母なる星に思わず笑ってしまいそうになる。あんなにもろいところで、よくもまあ人類は好き放題してたもんだ。虚空の海を漂いながらさっきの表現が誤りであったとぼんやり考える。地球はけして早起きじゃない。むしろ世界一の寝坊助だろう。目覚ましのベルじゃ起ききれない彼は、その身に隕石がぶち当たることでようやく目を覚ますほどなのだから。
ぐるぐる回る視界にも慣れてきたので改めて周りに目をやる。あちこちに割れたガラスとコンクリートが漂い、爆心地である地球を中心にちょっとした小惑星群が形成されていて、土星の輪っかのように見える。岩盤クラスから下校中の石蹴りサイズまで、小惑星デビューを果たした大小の石ころの間から、人の姿もけっこう見える。と言ってももちろん酸素の無い宇宙に人間の居場所なんてどこにも無い。こんなに宇宙は広いのにとショボくれて、身も心もシワシワにしてどいつもこいつも黒の涙を瞳に溜めている。即身仏じみたフォルムがこうもたくさんあると有り難みの欠片もない。酸素は毒素の一つと言うし、限界まで身を清めた結果ということにしておこう。信仰の自由は別として。人間はまだ良いが、動物は悲惨だ。割れた風船のように中身を暗闇に晒す哺乳類たち。特にこんなパンダをお茶の間にお届けしようものなら国際問題だぞ。自主規制。
 そんな中でふと一人の女の子と目が合った。そこらに転がる死人の目とは違う。有無を言わせぬ自信に満ちた、赤い目。彼女はその目と同じ色のポストを蹴って僕の方へ飛んできた。慌てて両手を伸ばして、やってきた彼女の右手と腰に手を回して受けとめる。彼女の持ってきた慣性で二人して弧を描きながら、お互い見つめ合う。腰から手を離し右手だけ、五指を強く絡めて手のひらをくっつけた。指は氷のようにひんやりと冷たかった。
 「あなた、人間じゃないわね」
 「そういう君こそ」
 幕の下りた仄暗いカーテンの向こう側、誰に見せるためのものではない舞台の上で踊る役者がふたり。
 「長く生きてきたけど、まさか地球が滅亡した後も生きるとは思わなかったわ」
 「人の理を外れたものがこの世から追放される、なんて聖職者の決めゼリフは聞こえが良いけど、他の人間までほっぽり出しちゃ世話ないね」
 言えてる、と2人して音量を気にせず声を上げて笑う。こんな状況で出る冗談は、不老不死特有の余裕と感性の麻痺から出てくる類いのものだ。常人には言えない不老不死ならではのジョーク。イモータリィジョークとでも名付けようか。流行りそうもないしやめておこう。
 聞けば彼女は東京の出身だという。東京のどこに不老不死の秘術が眠ってるのかと一瞬考えたけど、東京だって昔は山だったんだ。変な一族も信奉もあって不思議じゃない。
 僕の出生も彼女に伝える。生まれは九州のさらに南の方で、これまたどこにでもあるようなど田舎。僕は興味本位で昔から伝わる風習やその背景を追ううちに門外不出の秘術を見つけた。そして不老不死になった。それだけ。
 どこも似たようなものだねと、また2人で笑う。指を絡めたまま、回る球体の遊具で遊ぶ子供のように飽きもせず無限に描かれる螺旋の軌跡。どうやら僕たちの不老不死としての特性にあまり違いはないようだ。酸素が無くても生きていけるし、手足を失い心臓をもがれようともすぐに再生する。痛覚が無ければ食事の必要もなく、おまけにこれといった弱点も無いときてる。しいて違いをあげるとすれば彼女の方が身体能力が僕よりずっと高いくらいだが、それを発揮できるところが無いんじゃどうしようもないと彼女は肩をすくめた。
 僕は生まれて初めて会う同胞に、静かな感動を覚えていた。友人はとうにこの世を去って長い間ずっと独りで生きていたし、これからも独りだと思っていた。でも違った。同じ不老不死がいるなんて、世界が壊れたことで世界の広さを知ることになろうとは。
 奇跡的な出会いだと思わないかい、と思わず口説いてると思われかねない言葉を口にしてしまったが、彼女はシティー派の慣れた身のこなしで田舎者のがっつきをなだめる。
 「そうかしら。あなたが知らないだけで、私たちみたいな不死者はけっこういるの。もちろん世界中でね」
 彼女はその卓越した視力でもって、距離にして1光年はゆうに離れている同胞の姿を捉えた。もちろん僕には見えない。人並みの身体能力しか持ち合わせていない僕には、自分以外の生の鼓動を彼女からしか知覚できなくなっていた。彼女は空いた左の指で宙を指差す。僕の受け止めきれる光の屈折を超えた、世界の外側のことを彼女は教えてくれる。水星の方に浮かんでるのはアメリカの人で、酸素が無いと呼吸できないから苦しんでる。火星の方に飛んでいくあの人は、体を丸めて冬眠の準備をしてる。木星目指して加速する彼は人の形さえしちゃいない。不幸にも太陽の引力に巻き込まれたあの人はたぶん吸血鬼だろう、背中から赤や白のグラデーションで発光している、とのこと。
 でも僕にはそのどれもこの目で見ることは叶わない。彼女が教えてくれなければ一生知ることは無かっただろう。彼女を通じて世界を知る。力なく流される僕にとってこの女の子が世界そのものだ。僕は初めて僕が生きていた世界に触れる事ができて、言いようのない安堵を覚えた。
 しかし彼女の親切な講義に耳を傾けていると、いつの間にか辺りを漂よっていたアスファルトも夫婦の成れの果ても動物園のパンダも遠い未来か過去のように離れていた。かろうじて視認できる米粒サイズは、それが一体何なのかという情報さえ汲み取らせてはくれず、すぐに存在自体も僕の視界から消えることだろう。長く親しんできたものでもそうじゃないでも、知ってる既存のモノが周りから完全になくなるのは少し心細かった。
 やがて各地に散らばっていたらしい仲間達がとうとう彼女の目ですら追えなくなった。世界の外側で彼らはどこに飛ばされて、その先でどう生きていくのだろうか。僕らがそれを知る術はもう無い。
 僕たちの行き着く先はどこだろう。もしかしたらどこにたどり着く事もなく、この宇宙を漂い続ける永遠の旅人となるのだろうか。意思なき漂流なんてそこらのデブリと変わりはしない。
 僕と彼女の右手と右手で架けられた橋は、体温の往来はあれど汗が滲むことはない。もう地球がどっちにあったのかさえ分からなくなった。
 「もし地球みたいな環境の星に落ちたら僕たちはそこでアダムとイブみたいな、人間のオリジナル認定をされちゃうのかな」
 「実はあの2人も私たちみたいに宇宙からやってきたのかもね。地球がそうやってできた可能性だって無くはないし」
 なんて名前で後世に残してほしいか今の内に考えようか、なんて気楽に他愛ない話をする。こんなネタ、SFか陰謀論のどちらに分類するべきか迷ってしまう。個人的には神様に近い気がしないでもない。