大人は大変

今月は自分の誕生月なので、会社の健康診断のようなものを受けた。運動能力に焦点を当てたもので、結果にペナルティがあるわけではないけど、意地になってしまうのが男の子のサガで、あやうく四肢が爆散しかけた。

 

全てのテストを終えると係りのお姉さんに「もっと運動をしましょう」とか「体が硬いですね」といった批評をいただく。昨年の結果と比較して見られるようになっており、衰えたと思っていても案外数値は変わっていなかった。せいぜい握力が2kg落ちたくらいだった。しかしこのペースでいくとあと20年でおれの握力は0になってしまう。たぶん液体になる。カレーを食べると黄色くなり、握力が無くなるかわりに長座体前屈の記録は伸び続けるだろう。いや手足の概念もなくなるから長座体前屈を正しく計測することもできなくなるのか。握力だけでなく他の数値も軒並み0になってしまうな。

 

役職も年齢も関係なく身体能力のみが評価される場において液状化したおれはどんなおじさんよりも下位の存在なので、係りのお姉さんに運動不足を優しく注意されることもなく、ゴミクズと罵られ唾を吐きかけてくる。唾はおれの表面で波紋をつくり、泡となって解け、やがておれの一部となるだろう。

 

大人って大変だなって思う

 

 

 

玄米4合と味噌とチップスター信州わさび味

初めて詩集を買った。本屋で文庫棚の横を通り過ぎようとしたとき、谷川俊太郎の自選集が目に入ったのでつい買ってしまった。作者のエッセイを1冊だけ読んだことがあり、いつか詩も読んでみたいと思っていたが、忘れかけていたころに見つけたので衝動買いに近いかたちとなった。

 

普通に暮らしていると、文章を読む機会はあっても、詩を読む機会はとんとない。国語の教科書で読んだのが最後という人も多いだろう。何が言いたいのか当時はイマイチ分からなかったけど、不思議と文章は憶えているものだ。『かまきりりゅうじ』はそらで言える自信がある。

詩特有の独特な言い回しや短さが、新幹線から見える突飛な看板のように「今の何だ?」という感じで頭に残りやすいのだろう。頭の中でひとり、何十回も何百回も暗唱することで、その詩の意味が自分だけのものに昇華していく。詩人は広告屋に向いているかもしれない。

 

作者と読者で意味は食い違ったり、読者の間でも意見がぶつかったりする。それぞれ読んだときの心境や環境が違うからだ。

どの詩が頭に残ったかも人それぞれでまったく違う。目に留まった詩は何度も読みこまれたり、栞の定位置になって本に癖がつく。反対にぴんとこない詩は何の感情もなく流される。言葉ひとつとってなんとか意味を汲み取ろうとしても、ぴんとこない詩にはなぜかどうしても深い意味があるようには思えない。単純に好き嫌いの問題だ。

それでもいいのだとする詩の世界はあんがい、気を張る必要がなく親しみやすい。でもたまに豪速球で心をえぐってくるものもあるので油断すると吐きそうになる。深夜のどうかしてる時間には特に。

 

買った自選集では、「二十億光年の孤独」「つまりきみは」「ゆうぐれ」がとてもいい世界観で気にいった。まだ全部読めていないしばら読みだけど、急いで読むものでもないのでしばらくは枕元に置いておくことにする。「くらしは質素で、たまに詩を読んで過ごした。」なんか宮沢賢治の作品に出てきそうじゃないだろうか。そんな気分にもなれるので、詩集をひとつくらい持っていてもいいな、と思った。

 

坂の上には学校がある

目覚まし時計をセットするときに日付が目に入った。8月31日。一般的に夏休み最後の1日とされる日だ。おれが通っていた高校では夏休みは8月の25日くらいまでで、夏休み最後の日という情緒は多少薄れてしまっているけど、それでもこの日は夏休み最終日だという意識が根付いている。

 

おれはいつも宿題を後回しにして、最終日に慌てるやつだった。今でもそれは変わっておらず、周囲に迷惑をかけてしまっている。

この夏は、夏らしいことをしただろうかと振り返ってみる。今年は海にも行ったし東京にも遊びに行った。学生からするともう一イベント欲しいところだろうが、社会人としてはそれなりに夏を謳歌しているんじゃないか。


せっかく夏休み最後の日だから学生らしいことをしようと、日付が変わる前に日記を書き始めたはいいものの書くことが思いつかない。急かされる気持ちを擬似的に味わおうというのにまったく落ち着いてしまって緊張感がない。日頃からさくせんを「きらくにいこうぜ」にしているせいで鬼気迫るものがまるでない。

どうでもいいけど「いのちをだいじに」と「人に優しく」はニュアンスがとても似ている気がする。ブルーハーツドラクエが好きだったんだな。いや時代的に逆か。

 


ドラクエで思い出したけど、おれは小さいころドラクエの「テリーのワンダーランド」に熱中していた。ゲームボーイカラーのやつだ。攻略本片手にデスピサロを作った思い出がある。

 

ある日父の親友の家に家族で遊びに行ったとき、ゲームっ子だったおれはもちろんテリーのワンダーランドを持って行った。家は山裾にあり、いろは坂も顔負けの急勾配&連続カーブで母がすっかりやられていた。川原で泳いだりバーベキューをして遊び、そのときに、テリーのワンダーランドを忘れて帰ってしまった。

 

以降その家に行くことはなく、今さら取り返そうなんて気もないのだけど、もう一度あの家を訪れなければいけないとずっと考えていた。

父の親友の、そのまた父親の名前がおれとまったく一緒という、それだけの理由なんだけど、おれはどうしても行かなければならないような気がしていた。シンパシーってやつか、思い出の美化か。名前自体は初対面の人でも読めるほどの少し珍しい程度でも、読みも字も一緒の人は今の今までそのおじいさん以外に出会ったことがなく、おじいさんの方も嬉しがって可愛がってくれた。小さいころだったのでおじいさんの顔はまったく思い出せない。もういよいよという歳なので、健康なうちに会っておきたい。

 

うまく説明できないけど、同じ名前を持つ先人とこれからも生きるおれとで、話をしなければならない気がしている。継承式と呼ぶべきものかもしれない。でも、その人生のすべてを、おれが聞いてあげなければという強迫が確かに、ある。声も顔も出てこないけど、おじいさんが他界したときには泣いてしまう確信がある。おじいさんから宿題を受けとらなければ、永遠に終わらせることなどできないんだ。夏休み最後の日に慌てて、まわりに迷惑をかけてしまう俺だけどこれだけは、ちゃんと終わらせて9月を迎えなければいけない。大丈夫。読書感想文だけは早かったんだ。

オールナイト・ドリップ

ここ数日はテレビを点けずに生活している。代わりにラジオを四六時中つけっぱなしにしてBGMのように使っている。

テレビを観なくても、ニュースはラジオでもやっているし旬の話題もパーソナリティーが取り上げてくれる。さほど不自由なく台風の情報もオリンピックの情報も、面白いトークだって流れてくる。

なるほどやはりラジオはテレビに次ぐ立派なメディアだなと思わされる。でもラジオのパーソナリティは、テレビで活躍する芸能人がとても多い。すると話題はやっぱりテレビ番組の内容や舞台裏に偏りがちになる。
ゴールデンタイムのテレビ番組の内容をパーソナリティーが話すとなると、聴いている人がその番組を見ている前提で細部を話し始めてしまうので、番組を見てない人にとっては場面を想像できず話に入っていきづらい。今のラジオはテレビありきな部分が多いことに、少し面倒くさくなってしまう。

ラジオよりテレビより上のメディアが登場しそれが当たり前に普及したとき、テレビの在り方はどうなるのだろう。今のラジオみたいに「ありき」の存在になるのだろうか。そしてそのときラジオは、「ありきのありき」となって絞りかすみたいになってしまうのだろうか。もしかすると、ろ過器みたいにたくさんの情報のフィルターを介して、ごく少量の純粋ななにかが抽出されたとても繊細なものになるのかもしれない。

がんばれバナメイエビ

平日の昼にスーパーに行くと、入り口で試食を勧められた。ぶどうの試食だった。ぶどうは好きだけど、足を止めて売り文句を聞いていると、時間を割いてもらっているし買わないことには申し訳が立たない気持ちに駆られてしまうので遠慮した。

冷房の効きすぎる精肉売り場をうろついていると、体操服を着た中学生が台車を転がして通り過ぎ、バックヤードに消えた。腕章をつけていたので、職場体験というやつだろう。見れば店内のあちこちで、腕章をつけた中学生たちが棚の整理を手伝ったりしている。入り口で試食を勧めてきたのもその1人だったことにようやく気付く。ぶどうの乗ったトレーを抱えて、入り口の向こうの駐車場をじっと見つめていた。せめて話を聞いてあげれば良かったかもしれない。

自分が中学生のときは、職場体験の時期にインフルエンザが流行って学級閉鎖になり中止になってしまった。文化祭も参加できなくなって散々だったことを憶えている。たしかおれは農協で職場体験をするはずだった。

1日を終えて帰宅した彼らは、親にいつもよりちょっとだけ優しくなったりするんだろうな。

柔軟剤を買い忘れたことに帰ってから気づいたが、買ってきたポテトサラダを食べたらどうでもよくなった。

アクセラアテンザあいうえお

車に疎い。どれくらい疎いかというと、友達の助力を得てなお、アクアとプリウスの判別できるようになるまで一年かかったほどだ。今はちょっと怪しい。

だいたい似たような車が多すぎる気がする。エブリイとハイジェットはバンで統一していいだろう。軽トラも多々あるみたいだし。大差ないよ。

もちろん1つずつちゃんと違うんだろうけど、いかんせん車に傾ける情熱を持ち合わせていないので平坦な目で見てしまう。細部を見ようとしないから同じに見えてしまうんだ。車好きの人は見るところが違うから、それぞれの仕様や特徴について挙げることができるだろう。そこでアクセラアテンザだ。

アクセラアテンザが分からない人は画像検索してみるといい。2つが並んだ画像が好ましい。そう、とても似ている。車好きを自称する人でも一瞬判断に迷うレベルだ。アクセラアテンザの写真をランダムで100枚出されたら、100問すべて正答できる人などいないのではないか。もちろんおれはどっちがどっちかてんで分からない。名前も似てるし。どうしてこうなった。開発チームが喧嘩でもしたのか。

かっこいいスポーツカーであるところのアクセラアテンザに乗りたいと願う車好き男子はごまんといるだろう。だからこそこの問題は避けて通れない。一朝一夕の付け焼き刃では瞬時に判断することは叶わない。電車を待つホームで、部活終わりの疲れた肩を柱に預けながらアクセラアテンザの参考書を捲る日々。いつかこの車のオーナーになるんだ。彼らの努力はおれにはとても計り知れない。どっちの車に乗ろうとおれには同じに見えてしまうけど、彼らには彼らなりの確固とした強い根っこがあるのだ。熱中できるものがあるのは良いことだ。

でもローンの完済直後や車検の直前に買い換えるやつ、お前らは車好きとは認めない。いくら良い車に乗ってて休みのたびに丹念に洗車していたとしても、お前らは認めない。そういう愛の無いやつがおれはこの世で2番目に嫌いなんだ。1番は戦争。3番、3番は、3番はところてんだ。

今のところ車を変える気はないけど、もし変えるなら次はダットサンに乗りたい。中古のボロいやつでいい。ボロいやつが良い。

ゴールのGはグレイヴのG

初めてひとりで墓参りに行った。実家から15分ほど歩くとうちの墓がある。雑草を取り、枯れた花を捨てて新しい花を入れてやる。墓石の上から水をかけて線香を焚き、両手を合わせる。自分がいずれこうなるという、終着点が目の前にあるわけだけど、先のことすぎて特に何も思わなかった。ただ、この小さな国がお墓で埋め尽くされないのが、なんだか勘定が合わない気がした。夕方に行ったのだけど、シャツの襟は汗に濡れて、帰る頃には墓石はすっかり乾いて触ると火傷してしまいそうだった。
来世は線香屋さんになりたいと思った。

 

帰り道に終着点、ゴールについて考えていた。

誰しも人生のゴールを目指すわけだけど、やっぱり最後のゴールを考えすぎると変なところに力が入ってうまく立ち行かなくなるというか、とりあえずは今ある目先のゴールを積み重ねるのが精神的にもいいのだろう。だから日記を始めたわけだから。
小さな事からコツコツと。目標を低く見積もって、とりあえず今日を生きてみる。たとえ明日死にたくなるようなことがあっても、今日のところは生きてみよう。とりあえず明後日まではがんばって生きてみよう。ヴィンランドサガの最新刊が出るから。
ゴールを設定せずに日々生きているので、いざ考えてみるとどういうことを目標にしていいのか分からない。仕事を頑張るとかいう優等生の背中には蹴りを入れてやるとして、何がいいだろう。今日こそはあの子の連絡先を聞くとか?でもそんな子はいない。積んでたゲームや本をいつまでに片付けるとか?いずれ苦痛に変わるからやめておこう。お金を貯める?給料明細を即ゴミ箱に捨てるほどおれの中の思春期が膨張してきているのでやりがいがない。


あれこれ考えてみたけど結局、こうして日記を書くのが精いっぱいだということらしい。少なくとも達成感はあるので、おれがすべきなのはこれを継続させる努力だ。

最終的にどこに行くのか、どこにも行かないんだろうけど、何もしないよりかは生活に張りが出ている。届きそうにない目標に全てが嫌になってしまうよりは、今の方が良いと思っている。