つれづれ2

会社の勧めで、トヨタの展示会へ行った。いかんせん車に興味が薄いせいで途中までモーターショーと勘違いしていたが、広い駐車場を会場としたわりとのんびりした雰囲気だった。

のんびりしすぎて、黒光りする新車の高級感と背広を着て動き回るディーラーの方に違和感があるくらいだった。

どうせなら重機の展示会が見たい。カニみたいな双腕作業機とか、カニみたいな多脚作業機が動くところを見てみたい。あと除雪車とか。除雪車はかっこいい。

 

展示された車の脇には、車名、型式、性能といった情報が記載されたパネルが立っていた。隅から隅まで読んでみるが、いまいちピンとこない。

マッドマックスを観たあとに「V8!V8!」と例のポーズではしゃぎはするものの、心の中では「V8ってなんや…」と専門用語に気圧されてるようだからまるでだめだ。たぶんエンジンが強力ってことなんだろう、というくらいにしか。

マックスの愛車が8なんだから、おれのボロ車は…2くらいだろうか。映画よろしくエンジンまわりを外に出して冷却効率を良くすれば3くらいになるかも。バケットホイールエクスカベーターはきっと3200くらいあるに違いない。F-ZEROは5万。5万はある。昔ゲーセンにあったF-ZEROレーシングゲーム、自キャラがランダムで決まること以外は面白い良いゲームだったな。ちなみにおれのキャラは変なジジイだった。

 

展示会場を歩いていると、車体の後ろにV36と刻印された車を見つけた。そういうもんだろうか、とぼんやり考えながら受付でアンケートを済ませ、袋状のジップロックをもらって帰った。パンフレットももらって帰れば良かった。次の車は、丈夫なランドクルーザーも良いなと思った。

タイムマシンは流線形

自転車は徒歩より速く、車は自転車より速い。それよりもっと速い乗り物はたくさんある。

 

速いスピードで移動するほど、土地どうしの距離の感覚が曖昧になる。自分の意識外でその移動が行われているなら、なおさら。

 

新幹線を使うとき、本州なら数時間で大体どこにでも行けてしまうから、ひょっとしたら、車窓から見える灯りのついた家には誰もおらず、人が住んでいないのかもしれないなという想像がある。何もかもすっ飛ばしてしまうスピードがそうさせるのだろう。

 

公共の乗り物は、自分が知っている、また憶えている道が終わると、目的地までは何キロで何時間かかるとかの数字に置きかわる。数を数えるステップに移行したとき、はたしてそれは移動しているといえるのか。エレベーターに乗っているときの感覚と似ている。

GPSの上では移動していても、それとは別に、なんだかとても曖昧な空間に留まり続けている気がする。少し怖いけど、嫌いじゃない。

新幹線という空間に適当な風景を窓に貼っつけて、目的地のデータを読み込む時間稼ぎをしているのではないか。なんてことも考える。風景に飽きてそんなこんなを想像していると、これもまたすぐに飽きて、いつの間にやら眠っている。

世界は五分前にできたっていう理論を少し信じている節がある。

 

村上龍の「五分後の世界」を積んでいるのを思い出したけど、読むのはまた今度にしよう。

その舟に乗せてくれ

言葉の意味がわからない単語を見つけると、国語辞典的なページで検索してスクリーンショットに残す習慣がある。それらは古語だろうが医学用語だろうが、一緒くたにしてフォルダにまとめている。

 

そうすることで語彙が増えるかといえばそんなうまい話があるわけもなく、自己満足すら通りすぎてただ作業の目で繰り返し行っている。

 

とりわけ気に入っている単語なんかはよく覚えていられるのだが、使いどころのないものばかりだ。ファージとか。テロメアなんて意味すらよく分からないけど、なんとなく語感がかっこいいので気に入っている。

 

 

古本や歴史の本を読んでいると、知らない単語が立て続けに出てくる。1ページのうちに何度も辞書を引かなければならない時もままある。その度に一旦本から意識を離れさせなければならないので、臨場感もテンポもあったもんじゃない。娯楽としてか、勉強としてか、作業としてか。一体おれは何を目的にこの本に向かっているのか、分からなくなってしまう。どことなく英語の教科書の例文を和訳しているような感覚がつきまとう。

 

難しい日本語を自分が理解できるレベルに落とし込むわけだからそう難しくはない。外国語だとこうはいかない。長文をひと単語ずつまじめに訳していくと、必ずといっていいほど熟語という難敵に足をとられてすっ転んでしまう。by the wayが日本語で「ところで」だなんて、義務教育で教えられていなかったら、おれたちはいったい何て訳しただろう。

 

ところで、中学生くらいの時に、洋楽を自分で日本語訳してみようとするの、どうしてなんだろうね。誰しも一度はやったことがあると思うんだけど。

その黒

グリスガンという工具がある。トリガーを引くと電気の力でセットされたグリス容器が押し出され、ガンの口から一定のスピードで機械へ供給できる仕組みになっている。もっぱら工場なんかで使われる。

 

 

グリスというのはいわゆる脂であり、あらゆる機械の稼働には欠かせないものだ。冷却作用のためにパソコンにも使用されていたりする。他にも様々な効果があるがキリがないので割愛する。とりあえず脂は超万能なんです。

 

 

グリスを注入すると、別口から古くなって黒ずんだグリスが排出される。新品の色のグリスが排出されれば内部の容量がすべて新品に取り替えられたということになる。

新品のグリスはけして黒色ではないし、もちろん異物が入ったわけでもない。それでも緩衝材や部品同士の潤滑に使用されると、どうしてか黒くなる。

 

 

ふと学校の階段の壁が思い浮かんだ。みんなが壁を手や指でなぞりながら階段を使うので、その高さだけ黒く汚れていた。今思えばあれは皮膚の脂が蓄積されて黒くなっていたのだと思う。

軍手なんかも、仕事柄いつも着けているのだが、新品のものであっても1週間もすればたちどころに黒くなってしまう。手の汗などすべて吸うので黒くなるのが早いということだろう。どうして黒くなるのかだけはどうしても分からない。知識的な問題とは別に。

 

 

気になって大阪名物のビリケンさんを画像検索してみた。あの足の裏は予想通り、擦り減って塗装が剥げ、少し黒くなっていた。しかしこれまでに膨大な数の観光客がビリケンさんを触っているはずなのに、目立った汚れが見当たらない。毎日係の人が足の裏を拭いたりしているのだろうか。いろんな人が触りに来るからきっと除菌とかも対策してあるんだろう。ビリケンさんを媒介にまったく新しいウィルスが蔓延していったら少し面白いなと思った。

ミリオンカラー・エディション

友人はその名の通り、緑色が好きだった。小さな庭にはよく手入れされた芝生が青々と敷き詰められていて、身につけるものは靴下から時計まで、黄緑やエメラルドグリーンといった様々なカラーバリエーションのものを選び、冬はきまってビンテージの煤けたモッズコートを羽織った。

緑色でないところといえば肌の色と髪の色くらいであり、その昔、なぜ髪は黒のままなのかと私が尋ねると、緑は土壌に芽吹くものだ、土の黒なくして緑は緑たりえない、と言った。緑に黒が大事なことは分かったよ、じゃあその白い肌はどうなのだ、もしかして鳥のフンじゃないだろうね。

私の軽口に友人は、コーヒーの入ったカップを置き顔をわずかに傾げて、目を細めた。

太陽さ。

無神論者がする聖人の瞳に、私はもうそれ以上何も言えなくなった。その店の勘定は私が自ら払った。

 

友人は休みのたびに都市を離れ、各地の山々を巡った。金曜日に別れるとき、いつも、もしかしたら彼は帰ってこないのではないかという気がした。そうだとしてもなんら不思議なことではなかった。それこそが友人の本懐であり、条件に合う山をずっと探しているのだと思っていた。真っ暗な土の中でほんのり白く輝く彼の骸が、明日の遠足を待ちわびる子供のように笑っている。そんなイメージが時折、頭にちらついた。

 

週末、友人に初めて誘われた。驚きはなかった。その瞬間に全てを理解して、ああ、ついにこの時が来たのだなという淡々とした感慨だけがあった。私は有無を言わずそれを了承した。

 

山には緑は見当たらず、ごつごつした砂利の灰色と雪の白だけがあった。気圧の変化に頭が締めつけられ、何度か吐いた。友人は私を心配したが、構わず登り続けた。しばらく無言でひたすらに登り続けた。息が凍り霧の中へ消えた。

 

山の頂上から見る朝日は、神聖で、普段みているものとはまったく異なる、別世界のもののように思えた。汗が冷えるのも気にせず、しばらく見入った。墓標になるものを持ってくるのを忘れたことに気づき、持って帰る体力もなかったので、用済みになったシャベルを深々と突き刺しておいた。

眠る友人の隣に腰掛けて、タバコに火をつけた。しかしもはや肺は紫煙に割ける容量を持ち合わせておらず、ひどく咳き込んだ。諦めて大の字になると、空の蒼が視界いっぱいに飛び込んできた。

蒼い。なんて蒼いのだろう。今まで見てきたものよりはるかにずっと蒼い。蒼穹のその先に宇宙が広がっているとは思えなかった。きっとどこまで行っても青色で、昼も夜もないのだ。墓参りは大変そうだけど、この青色が見られるのなら、悪くない。

都市に帰ったら、青い時計でも買おうと思った。

盗んだバイクに軽油を入れる

今日を入れてあと4日で、20回目の誕生日を迎える。あらゆる制限が解除されて社会からは大人と認められると同時に、輝かしい10代の日はもう永遠に来なくなる。成人の方が生活のあらゆる面ではるかに便利なのだろうけど、切なさの方が今は大きい。

もう永遠に、2度とやってこない、というのがとても怖くて仕方がないところがある。なにか大切なものを失ってしまうような気がする。形式的に、外側から、レッテルが、お前はもうそうなのだと突きつけられているようで、とても漠然としていて難しいんだけど、誰かがおれのうしろで息を潜めていて、日付が変わった途端におれの着ているものをビニール袋みたいにびりびりに引き裂いて、用意していた服を上から着せてくるようなイメージがある。囚人を収監する時みたいに、服を没収し裸にさせて全身に消毒液を浴びせ新たな服が支給される。今ここは留置所かもしくは自首をする前の最後の朝で、やり残したことを拾い集める猶予期間だ。

 

10代の内にやっておきたいこと、10代らしいことを考えてみる。とりあえず一つは達成されている。この漠然とした不安に苛まれることだ。漠然とした不安は10代の特権なので。10代のうちに旅をせよというのでやっぱり旅だろうか。でももう休みが無いからなあ。日帰りで友達と線路沿いを歩いて死体を探しに行くこともできない。

河川敷を夕焼けに向かって走るとか。台風来てっけど。

1日で二桁の回数自分磨きしてみるとか思いついたけどたぶん泣くことになるだろうから嫌だし、10代のうちに読んでおきたい本なんてとても読みきれない。20歳になってやりたい事はいっぱいあるんだけどなあ。

 

あれこれ考えてるうちに、意識して10代らしいことをしようとする事自体が10代らしからぬような気がしてきた。自分の中の10代の定義がブレてきてる。とりあえずは10代らしく体に良くなさそうなハンバーガーとポテトを食べて、「君の名は。」を観に行ってこよう。他はまた後で考えよう。後できっと考えるよ、うん。さっさとやれって言われたら「この後やろうと思ってたのにそんなこと言われたからやる気無くなったわー!」って言う準備だけはしておきながら。

つれづれ

夜ふかしという言葉がある。いつまでも寝ないで遅くまで起きることだ。でも夜に一睡もしないで働くことは夜ふかしに入るとは言いづらいかもしれない。夜ふかしすることを仕事という理由が正当化してしまうからだ。

 

じゃあ夜勤明けにいつまでも起きているのは昼ふかしといえる。夜ふかしより良くないことをしている感はないけど、かわりにだらしなさが増した気がする。なんとなく昼行灯という言葉がちらついて、ついでにまぬけさも増したように感じる。

 

部屋に置くタイプの消臭剤を買った。石鹸の香りがするやつだ。寝汗をよくかく体質で、さらにここ数日窓を閉め切っていたために部屋が少し酸っぱい臭いがしていた。1日おいて部屋に入ると、石鹸の香りが充満しており自分の部屋じゃないような気がした。

 

自ら体臭を知覚することはできないというけど、自分の臭いではないということは判断できるらしい。消臭剤を部屋の端っこ、ゴミと隣り合わせに移動してみた。するとゴミと石鹸で相殺されて、部屋はほぼ無臭になった。いや布団の汗の臭いがまた浮上してきたからあまり意味がないな。近いうちにまた部屋の掃除をしなければいけない。

普段の暮らしぶりから、昔の自分と今の自分で臭いは変わっているのだろうけど、それに気付くことのできる人は存在するのだろうかと思った。自分では気付けないし、もし居ないなら変わっていないということになる。